キッコーマン食文化講座

江戸の居酒屋文化(2) ~江戸っ子が呑んでいた酒と酒の肴~

日程 2015年11月28日
場所 東京本社
講師 飯野亮一先生
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

1.江戸で飲まれていた酒

江戸で飲まれていた酒の多くは下り酒の諸白で、諸白とは、仕込み用の掛米(蒸米)と麹米の両方に精白米を用いて造られた清酒をいい、16世紀の中頃に奈良で生まれた。
諸白は、はじめ「南都諸白」が高い評価を得ていたが、江戸時代に入ると、諸白造りの主産地は摂津の伊丹・鴻池・池田・冨田(とんだ)に移り、この地域が銘醸地になった。
江戸に送られる下り酒は、正保年間(1644~48)より菱垣廻船による大量輸送がはじまり、享保年間(1716~35)には年間約22万樽にも達したため、享保15年から船脚の速い酒荷専用船の樽廻船によって運ばれるようになった。
江戸で飲まれていた下り酒には、上方では味わえない付加価値がついた。それは輸送中に生じた味の変化で、下り酒は海上輸送により美味(うま)さが増した。『万金産業袋(ばんきんすぎわいぶくろ)』(享保17年)には、伊丹・池田の酒は「作りあげた時は、酒の気は甚(はなは)だ辛く、鼻をはじき、何とやらん苦みの有やうなれども、遥(はるか)の海路を経(へ)て江戸に下れば、満願寺は甘く、稲寺には気(き)あり、鴻(こう)の池こそは甘からず辛(から)からずなどとて、その下りしままの樽にて飲むに、味ひ格別也。これ四斗樽の内にて、浪にゆられ、塩風にもまれたるゆへ酒の性(しやう)やわらぎ、味ひ異(こと)になる也」とある。満願寺は池田の満願寺屋の酒、稲寺は伊丹の稲寺屋の酒、鴻の池は伊丹の近くの鴻池の酒である。これらの酒が、はるばる海路を運ばれてくるうち、酒樽が浪に揺られ、塩風にもまれて、味に変化が生じてまるみがでて、格別な味わいになる、といっている。
「やはらかに・江戸で味つく伊丹酒」(誹諧媒口 元禄11年)といった句も作られている。19世紀に入ると、伊丹や池田に代って灘の酒が下り酒の主役を占めるようになった。
江戸では美味い下り酒が飲め、江戸に入荷する酒の量が増え、寛政7年(1795)から享和元年(1801)にかけての下り酒と地廻り酒の江戸入津量は年間平均92万9522樽に達し、19世紀前半、江戸市民は毎年90万樽超の酒を飲んでいた。酒の標準的容器の4斗樽は、3斗5升入りのようなので、90万樽としても、その量は5万6700klになる。これを、当時の江戸の人口を100万人と考えて、一人当たりの消費量で計算してみると、一日約155mlの酒(清酒)を飲んでいたことになる。

2.居酒屋の酒の肴

居酒屋で出されていた主な酒の肴は次のようなものである。

(1)田楽

居酒屋が生まれる前、酒屋で居酒が行なわれていたが、酒の肴としては田楽が出されていた。それが居酒屋にも受け継がれて、酒の肴の人気メニューになっている。
やがて、この田楽はおでんに発展し、江戸の町にはおでん・燗酒売りの姿がみられるようになる。江戸時代のおでんは、茹でた蒟蒻や里芋に味噌を塗って売っていたが、明治時代になると煮込みおでんが現われる。

(2)芋の煮ころばし

芋の煮ころばしは、里芋を転がしながら汁がなくなるまで煮詰めたもので、文化年間(1804~18)には居酒屋のメニューにみられる。やがて、これを売り物にした居酒屋が現われ、「江戸五高昇薫」(嘉永5年・1852)には5軒の芋酒屋の名がみえる。

(3)ふぐ汁

ふぐは危険な魚と考えられていて、『物類称呼』(安永4年・1775)には「江戸にて異名をてつほう(鉄砲)と云。其故はあたると急(たちまち)死すと云意也」とある。この危険なふぐが、『彙軌本紀』(天明4年・1784)の、日本橋の魚市場の賑いを描いたところに、「買上る河豚(てつほう)」は「販食屋(にうりや)の鄽(みせ)」へ、とあるように、居酒屋の食材として使われている。ふぐの代表的な料理法はふぐ汁で、早くも18世紀中頃には居酒屋のメニューに登場し、定番メニューになっていく。

(4)ふぐのすっぽん煮

ふぐはすっぽん煮としても出されていた。すっぽん煮とは「本来はすっぽんが材料で、油で炒めてから醤油、砂糖、酒で濃い味に生姜汁を加えた煮物であるが、他の材料を用いても同様に煮た煮物をすっぽん煮またはすっぽんもどきという」(『江戸料理事典』)とある。

(5)鮟鱇汁

鮟鱇は高級食材であったが、しだいに大衆魚化し、『放蕩虚誕伝(ほうとうちょちょらでん)』(安永4年)の、世の中が大きく変化している様子を述べているなかに、「貴人の河豚汁、居酒屋の鮟鱇」とあって、居酒屋のメニューにも鮟鱇が登場してくる。
鮟鱇は吊るし切りにされていて、
「鮟鱇も吞みたさうなる居酒見世」(柳多留86 文政8年)
といった句が詠まれている。

(6)まぐろ料理〔ねぎま〈葱鮪〉と刺し身〕

江戸時代、まぐろは下魚とみなされ、値段も安かったので、居酒屋のメニューに早くから加えられていたものと思える。居酒屋でのまぐろの料理法の代表的なものは、葱と煮て食べる葱鮪(ねぎま)で、『侠太平記向鉢巻(きやんたいへいきむこうはちまき)』(寛政11年・1799)には、居酒屋から仕出しの葱鮪が届けられる場面が出ている。刺身として出すこともはじまり、『堀之内詣』(文化11年・1814)には、「まぐろのさしみ」を置いている「居酒屋」がでている。

(7)湯豆腐とから汁

湯豆腐とから汁は早くから居酒屋の定番メニューになっていて、湯豆腐のつけ汁は醤油と花がつお、薬味には刻み葱、大根おろし、粉唐辛子、浅草海苔、紅葉おろしなどが使われたようだ。
から汁は、二日酔いに効くと考えられていたので、遊里の近くの居酒屋では朝帰りの客が好んで飲んでいた。