過去の記録

東京本社 2016年7月23日

概要

講師

北原進先生

 言うまでもなく旗本、御家人は徳川将軍家の家臣団であり、幕府直属の軍事集団である。彼らが日常の生活の糧とするものは、将軍家より拝領の領地と、全国から集められた天領の年貢(浅草蔵米)であった。この支給される浅草蔵米を担保として、旗本や御家人に高利貸付をしたのが浅草蔵前の札差であった。

 江戸時代の武士は初期は豊かであったが、中後期には次第に貧しくなり、高利貸しに蝕まれるようになったと言われているが、そうではない。鴻池文書の貸付帳簿には、大名貸しが近世初期から大いに行われている。戦国時代頃から一般に武家金融の利子は年3~4割というのも珍しくない。幕府は当初、商人仲間に株仲間を作らせない方針であったが、質屋・古物商など警察的な取締りを要するものは例外で、質屋の将棋の駒形看板(店に入れば金になる)などは良い例である。また大名貸しは近世中後期まで絶えず行われていた。

 浅草の蔵前には幕府が全国から集めた年貢米倉庫があり、現在の台東区、隅田川に面して舟入掘りを櫛形にうがった右岸にあった。100軒余りの高利貸し業者、札差がこの周辺に集まり、株仲間結成を願い出て認可されたのが享保9年(1724)、以後人数は少し減って幕末まで96~98人ぐらいが、蔵米取りの幕臣団の高利貸付を独占し続けていた。

 取りはぐれがない蔵米担保金融は大いに利益が上がり、ついに札差が江戸中の大富豪の代表と言われるようになった。ことに好景気だった田沼時代の正月の初寄合でみせた大宴会の献立一覧表を見ると、吸物・取肴・引菓子を入れて一人前が金8匁2分、また日頃世話になっている米屋、運送屋、その他の出入りの中小商人も含んだ大盤振舞いが行われ、札差1人当たりの負担だけでも何両かに上っている。

 こうした田沼時代の商業重視の偏重に苦々しい思いを抱いていたのが寛政の改革の立役者、老中の松平定信である。彼は当初から贅沢の限りを尽くした札差を潰しても良い、それが旗本たちを救う道と信じて断行したのが、寛政元年(1789)の棄捐令で、有名な借金棒引き命令である。5年以前までの札差債務は一切棒引きとし、以後4年間のものは年利6%の年賦とされた。

 札差が被った損害は当時の幕府の年間支出額に匹敵する118万8千両、この内、伊勢屋四郎左衛門の1軒だけで8万3千両の損害を出した。しかし札差業は明治維新まで続いた。幕府の給与が浅草蔵米で支給されることが続く限り、江戸の代表的な金貸業者であった。

 彼らを中心に江戸の文化は非常に栄え、派手になっていった。歌舞伎などの演劇、美術工芸品の支援者に、中でも江戸で活躍した貧しい小林一茶に経済的に援助した夏目成美は名高い。関東の地回り経済と称する関東産商品経済の発達もこうした動きと密接に関わっていた。米、麦、塩などの生産と共に関東醤油、砂糖、麹生産なども見逃せない。江戸時代に入ってからも長く後進地域視され続けていた関東は、こうして革新性、先進性を得て、江戸が政治のみならず、経済、文化の中心性を勝ち得たのであった。

以上

2016年7月23日
キッコーマン国際食文化研究センター