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江戸時代のしょうゆ輸出について


輸出しょうゆの生産地
1687年(貞享4年)の『長崎商館仕訳帳』に、「〔セイロン本社商館〕用として〔京の醤油〕20樽を詰め、1樽30匁云々」という記録があります。京都の酒屋が醸造したしょうゆと考えられます。当時、京坂地方では堺のしょうゆが名産として知られ、京都でも同様の質の高いしょうゆが造られるようになっていました。
清酒の輸出量は、毎年しょうゆよりも多く、「京の酒」という記録が1670年(寛文7年)から『長崎商館仕訳帳』に見られ、『バタビア城日誌』では、これを「皇帝の酒」として特別扱いをしています。同様にバタビアでは、「京の醤油」も「皇帝の醤油」として高級品扱いとしていました。さしずめ、現代風にいうならば「皇室御用醤油」といったところでしょう。「京の醤油」という記録は、1692年(元禄5年)まで『同仕訳帳』に見られます。
一方、1764年(明和元年)から1780年(安永9年)の間の、主に長崎貿易実務について書き留めた『明安調方記』には、堺のしょうゆについて記録し、それ以外のしょうゆについては触れていません。記録によると、堺のしょうゆ屋細屋庄兵衛ら4軒が醸造元です。
堺のしょうゆは、「堺糸荷回船」(「堺船」)が堺から長崎に下る空船を利用して送られました。堺船は、慶長年代いらい、長崎から輸入生糸を運ぶ特権が与えられていました。
種々の資料を分析すると、オランダとのしょうゆ輸出は、堺産のしょうゆが中心となり、高級品として京都産のしょうゆも使われたと考えられます。
また中国貿易では、『唐蛮貨物帳』に値段の非常に安いものが散見さることから、堺のしょうゆの他に、九州の地廻りしょうゆも用いられたと思われます。
いずれにしても、江戸時代、輸出に用いられたしょうゆは、関東産の登場する幕はなかったことは確かなようです。

(図)


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