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過去の展示

江戸時代のしょうゆ輸出について


コンプラ株仲間(2)
「コンプラ株仲間」として認許されたのは、1666年(寛文6年)長崎奉行河野通定によることは「Panel-14」で触れましたが、これをもっと詳しく見てみましょう。(故 市川 正雄『コンプラ瓶あれこれ』より)
1642年(寛永18年)、平戸のオランダ商館が長崎の出島に移されたとき、平戸でオランダ人に物資の売り込みをしていた商人のうち、「小柳兵左衛門」「鮫屋文左衛門」の2名がオランダ人に同行し、長崎で商売することが許されました。その後、商売が忙しくなり、1653年(承応2年)になって平戸から「平山利兵衛ほか3名」を呼び、仲間は6人になりました。ついで1666年(寛文6年)、「村田彦左衛門ほか9名」が加わって16名となりました。以降、株仲間は16株で固定され、増えることも減ることもありませんした。一時、1株を2人で持ちあって17人となった時期もありますが、通常は16人でした。
株数は16株と限定されていましたが、株の売買は自由で、相続人や縁者に継承されました。1858年(安政5年)に締結された蘭、英、仏、露との通商条約の発効以降は、その特権を失って営業を続けていく目的もなくなりました。そこで株仲間では、1868年(慶応4年)6月からパンの製造・販売をするなど、新しい仕事を始めましたが次第に営業不振となり、1874年(明治7年)になって「株」や共有財産である「仲宿」(コンプラ仲間の営業所)などを処分して「コンプラ株仲間」としての営業は停止しました。
「コンプラ株仲間」は営業のほか、1844年(弘化元年)、1850年(嘉永3年)、1855年(安政2年)には、オランダ人の江戸参府に随行を命じられ、道中でオランダ人達が禁制品を買い上げないように監視したり、商売の取次ぎをするなどの役目を勤めることもありました。

川原慶賀筆 「唐蘭館絵巻・蘭船碇泊図」
川原慶賀筆 「唐蘭館絵巻・蘭船碇泊図」(長崎市立博物館蔵)


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