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過去の展示

江戸時代のしょうゆ輸出について


コンプラしょうゆ瓶(1)
『長崎商館仕訳帳』には、しょうゆ輸出量を「樽」数で記録しています。
この「樽」には「大樽」と「小樽」があり、記録を細かく分析していくと「大樽=1斗6升1合余」(約29.104 )、「小樽」は大樽のほぼ2分の1であったことが判りました。
しかし、実際に輸出する際には、「樽」で送られる他に、別の容器に詰め替えて輸出されたものもあります。この別の容器が、いわゆる「コンプラ瓶」と呼ばれるものです。(展示品参照)
さらにこの「コンプラ瓶」が登場する以前は、「ケルデル瓶」と呼ばれる四角いガラス製の瓶が用いられていましたが、この瓶が不足し、それを補うために長崎に近い伊万里や、波佐見の焼き物による瓶が使われました。
そして、やがて現在よく目にする徳利型の焼き物に替わりました。徳利型の「コンプラ瓶」は、正確には「コンプラ醤油瓶」です。その理由は同型、同目的に使用した「酒用の瓶」もあるからです。(しかし、ここでは単に「コンプラ瓶」と呼ぶことにします)
山脇先生の研究によりますと、「コンプラ瓶」の容量は「2合9勺余」(約522 )であり、1790年(寛政2年)初めて輸出に用い550本使用された、ということです。
この550本は、特に「浄化醤油」として記録されています。(「Panel-13」参照)
長崎商館は、1793年(寛政5年)から「本方荷物」としてのしょうゆの輸出を中止します。そして、1799年(寛政11年)、「オランダ東インド会社」は解散しますが、その後、長崎商館は、バタビアの「東インド政庁」の管理下に入り、しょうゆの輸出を再開しますが、この際は瓶詰となり、1790年に使用したものを模倣、踏襲したと考えらています。

ケルデル瓶
ケルデル瓶 (写真提供:サンルートプラザ東京)
コンプラ瓶
コンプラ瓶


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