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過去の展示

食文化に見るしょうゆの包装・容器 その1


しょうゆ容器の代表格「樽」(2) 樽のあゆみ
樽の起源

「樽」という容器がいつごろ成立したのかということは実はよくわかっておりません。現在私たちがすぐに思い浮かべる樽は、「結樽(縛樽)」とよばれれる種類のものです。これは13世紀頃に中国から主に日宋貿易によって日本にもたらされた結桶が起源と考えられています。それは、この頃の絵巻物に登場し始めることからわかります。

結樽の普及

その後、樽は戦国時代後期に京都周辺において広まっていき、江戸時代には日本国中へ普及しました。輸送性に優れ、作りやすい結樽が大いに発展し、樽の主役の座を占めることになりました。

しょうゆ容器としての結樽

樽にもいろいろなヴァリエーションが生まれましたが(「(1)樽のさまざま」参照)、しょうゆ樽として専ら用いられるようになったのは、杉板の結樽でした。この結樽は、元来、主に酒の輸送容器として用いられていましたが、やがてしょうゆにも用いられるようになったものです。しょうゆが工業的に生産される時代に入った江戸時代前期、しょうゆを各地に流通させるためには、従来の重くて壊れやすい甕(かめ)・壷(つぼ)では不都合でした。そこで、軽量であり、壊れる心配がより少ない樽が輸送に便利な容器として選択されたわけです。なお、しょうゆ樽は、江戸のしょうゆ問屋仲間では容積が1斗(注)、実際に中身は8升(注)の樽が標準とされていました。明治以降、1樽につき9升入れるようになりました。
(注)1斗=18リットル、1升=1.8リットル
『大日本物産圖會』「下總醤油製造之圖」 『大日本物産圖會』「下總醤油製造之圖」
三代安藤広重作
(キッコーマン(株)所蔵)

輸出用しょうゆ容器として結樽

江戸時代、日本とオランダは通商関係を持っており、貿易の窓口は長崎でした。日本のしょうゆは、この長崎貿易を通じてオランダに輸出されていました。その際、コンプラ瓶と並んで、樽も輸出容器として使用されていまいた。右の写真は、オランダ東インド会社の貿易文書で、文書の中央部分に「12 Balien Soya」(「12樽しょうゆ」)と書いてあります。
オランダ東インド会社貿易文書
オランダ東インド会社貿易文書
(オランダ・ハーグ国立公文書館所蔵)

しょうゆ樽はリサイクル容器

樽は、新しく製造した新樽も使われていましたが、当時「最上醤油」は古樽がよいとされ、これを水や熱湯でよく洗ってきれいにして再使用していました。江戸時代には「明樽(注1)問屋」の組合が存在し、空樽を集めて醸造家へ売るというシステムが構築されていたのです。
また、「下り酒(注2)」の酒樽の再利用、すなわち4斗(約72リットル)入りの酒樽を分解して9升(約16リットル)のしょうゆ樽に作り替える「潰樽(つぶしだる)」も行われました。また、樽を貸し出す「貸樽」という仕組みや、さらにしょうゆを少量買う人のためには量り売りが行われ、持ち帰り容器には陶器が使われました。
(注1)明樽(あきたる) 空樽のこと
(注2)下り酒 関西方面より江戸へ出荷された酒
しょうゆ樽はリサイクル容器

近代以降の樽のあゆみ

明治以後も、結樽はしょうゆ樽としてたくさん用いられました。これまでの酒樽の再利用に加えて、明治末期頃より、上質の秋田杉を使用した樽が多く用いられるようになりました。1910年(明治43年)奥羽本線開業という交通・運輸の発達により、樽資材の供給元が変化したわけです。大正時代に、しょうゆは樽詰め全盛時代を迎えることになります。以後、しょうゆの需要は増大し、ますます大量の樽が必要になりました。キッコ-マンでは、製樽工場を設立し、樽を大量生産し始めました。
しかし、しょうゆ需要の増大から容器の需要も伸び、それとともに缶・瓶の普及が進みました。樽の需要は引き続き増加しましたが、やがて樽は社会の変化に伴い、しょうゆ容器としてのシェアを下げていく運命をたどります。
戦時中は、資材の不足から、松材を用いた昭和樽、杉挽材(すぎひきざい)を用いた東亜樽(とうあたる)といった樽が開発され、容器の不足を補いました。また、戦後も資材不足が解消してから杉樽が復活して用いられ続けましたが、社会的ニーズの変化、さまざまな技術革新によって、高度経済成長時代にはほぼその役目を果たしました。

昭和樽
昭和樽
東亜樽
東亜樽


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