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過去の展示

洋食 欧米食と和食との融合

西洋野菜の登場
西洋渡来の野菜が日本で最初に栽培されたのは、長崎出島のオランダ屋敷である。そこではオランダ人たちが自給自足で西洋野菜を育てていた。川原慶賀の『蘭館絵巻』が当時の様子を伝えている。やがて開国すると、それは開港場近郊へと広がることになる。安政6年(1859年)、開国直後の横浜に、イギリスの初代総領事として着任したオルコックは、すでに近郊でニンジン、芽キャベツ、パセリ、ハナキャベツ、トマトなど西洋野菜が栽培されていたことを記録している(『大君の都』)。また「鞍馬天狗」でお馴染みの作家・大仏次郎氏は横浜の居留地で目にした西洋野菜の並ぶ八百屋の店頭を作品「幻燈」の中で「強烈な色をして油絵の具をパレットにぶちまけたように塊っているのだ」と表現している。その西洋野菜が本当に日本人の間で市民権を得るのは、昭和33年(1958年)のこと。この年、初のフレンチドレッシングが発売されている。正確にいえば、西洋野菜は進駐軍と共に日本へ上陸している。当時進駐軍が一番困った食料はレタスであった。冷凍技術がまだ未熟で、はるばる冷凍船で運ばれてきたレタスも生で食べられる状態ではなかった。だいいち不経済だった。「なんとか日本国内で調達できないものか」と連合国軍司令部は考えた。当時の農業は下肥で行われていた。そのなかでわずかに下肥を使わずに野菜を栽培している農場があり、それを知った司令部は、生野菜を入手するとともに、科学肥料だけを使って栽培する野菜を「清浄野菜」と名づけ農家に奨励していった。昭和24年(1949年)2月、初めて東京都指定の「清浄野菜販売店」第1号店が青山に誕生した。「紀ノ国屋」である。昭和28年(1953年)12月2日の読売新聞の朝刊に、新宿の伊勢丹がいかにも誇らしげに「香り高い新鮮で衛生的な清浄野菜トマト・キュウリ・セロリー・レタース等」というコピーで西洋野菜を紹介している。デパートの清浄野菜の広告が当時の世相を伝えてくれる。こうした戦後の中で、料理研究家の飯田深雪さんが西洋料理教室を開いたのは昭和23年(1948年)のこと。雄鶏社から『サラダ』(昭和32年)を出版し、「清浄野菜が出回って、サラダの人気が高くなりました」とあり、そして翌年初のフレンチドレッシングが発売されている。
そして現在、サラダはデパ地下の超人気商品として定着している。
折衷菓子(『日本百科大事典』) 大正初め頃のトンカツ屋の店先(『にっぽん洋食物語』)新潮社
吉田新田での西洋野菜の栽培
(昭和10年)
(『横浜吉田新田図会』)
横浜開港資料館所蔵
八百屋の店先 (昭和6年)
(『神奈川子安浜所見』)
横浜開港資料館所蔵
和洋折衷料理
コロッケからカツレツそしてトンカツまで
西洋野菜の登場