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-醤から醤油へ-しょうゆ発達小史

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-醤から醤油へ-しょうゆ発達小史
洋の東西を問わず、私たちの祖先は食物を保存する努力と工夫を重ねてきた。東洋では、自然発生的に生まれた保存食が母体となって、現在の味噌や醤油などに発展してきたと考えられている。今から、私たち日本人の食生活に欠かすことのできない「醤油」の発達をたどってみることにする。
~7世紀
醤の仲間
 人類は、食物を食塩に漬けて保存する過程で、保存がきくだけでなく、食べ物の持っている蛋白質が微生物の働きによって旨味成分に分解され、よりおいしくなることを体験的に知った。
 こうした保存用の副食または調味料を、中国では古くから「醤(しょう、日本語では“ひしほ”)」と呼んだ。この「醤」が様々な経緯をたどり「醤油」に発展したと考えられている。
 「醤」は用いられる原料や、原料の処理の仕方によって呼び方が変る。動物性の原料を用いるのを「醢(かい、しおから)」、植物性の原料は、やはり「醤」と呼ばれた。「醢」には「肉醤(ししびしほ)」(動物の肉や骨が原料)と「魚醤(ししびしほ、ぎょしょう)」(魚介類が原料)に分けられる。一方、「醤」は「草醤(くさびしほ)」(野菜や果物などが原料)と「穀醤(こくびしほ)」(麦や大豆などが原料)に分かれる。
 日本には、中国大陸から直接ないしは朝鮮半島を経て、これらの醤類が伝えられたと考えられている。時代的には「肉醤」もしくは「魚醤」がわが国における「醤」の濫觴 らんよう で、その後、原料となる麦や大豆の伝播とほとんど並行して「穀醤」が伝えられたとされている。このうち、動物の肉や骨を原料とした「肉醤」は、その後の仏教の伝来により思想的な影響を受け、わが国では発達することがなかった。
 「魚醤」は、わが国の地理的な特殊性もあって、全国に拡がり、それぞれの地で発達したが、現在では秋田地方の「塩魚汁 しょっつる 」、能登地方の「魚汁 いしる 」、香川県の「イカナゴ醤油」などに継がれており、また各地にある「塩辛 しおから 」は「魚醤」の発達したものである。
 「草醤」は、その後「漬物」という形態で発展し、現在にいたっている。
 最後の「穀醤」は、「味噌」や「醤油」に発展していった。(図表-1)
図表-1:「醤油の系図」
図表-1:「醤油の系図」
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中国の古文献にある「醤」
 中国・後漢(25-220年)時代の崔寔 さいしょく が著した『四民月令 しみんがつりょう 』には、「魚醤」「肉醤」「豆醤」「清醤」(豆醤=大豆の醤の上澄液。いわゆる「たまり」に相当。後述の『斉民要術 せいみんようじゅつ 』では「醤清」「豆醤清」)などのつくり方が記述されている。
『斉民要術』
『斉民要術』 6世紀前半に成立したと推定される農業技術書。北魏のの撰といわれ、古来の農書を集大成したもので、現存する最も古い「料理書」ともいわれている(『斉民要術 現存する最古の料理書』〈株〉雄山閣より転載)
 さらに中国・北魏(5~6世紀)時代に書かれた『斉民要術 せいみんようじゅつ 』には「肉醤法」(肉醤のつくり方)、「魚醤法」「食経作麦醤法」(麦醤のつくり方)などが書かれている。この時代になると、単に「醤」といった場合は「豆醤」(大豆の醤)を意味するようになっている。そして『斉民要術』に書かれている「豆醤」のつくり方を見ると、現代の醸造技術からすればかなり荒々しいつくり方であるが、「原料処理」「製麹 せいきく 」「仕込 しこみ 」「発酵・熟成」という現在の醤油醸造方法とほぼ同様の工程を踏んでつくられていたことが分る。この記述から、当時の「豆醤」を類推すると「水気の少ない粘体状」であったようで、調味料として使用するというよりは粘体状(ペースト状)のまま副食として食べられていたようである。
 こうした「醤」が日本に伝えられ、「醤」は「ひしほ=ひしお」と読まれ、「大豆醤」を中心に発達してゆく。しかしこの時代では、日本はもちろん、中国にも「醤油」という文字は登場しない。
~7世紀