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小豆島は豊臣氏の時代、直轄地であったため年貢が免除されていましたが、江戸時代になると年貢が義務付けられるようになりました。平地にめぐまれず、漁業や舟子ばかりの島で、産物といえば花崗岩くらいのもので、なんとか年貢を納める方法はないか、ということで考え出されたのが、しょうゆづくりでした。
小豆島は別名「舟手島」と呼ばれていましたが、これはこの島では、昔から水運業に従事した人たちが多かったためでした。

海を隔てた対岸に大坂という大消費地をひかえ、気候的にもしょうゆづくりに適した土地柄であったこと、原料の大豆や小麦は、花崗岩を運んだ戻り舟で入手できたこと、塩は対岸の赤穂や四国地方で産出され、容易に運び込むことができた、などがこの島のしょうゆづくりを盛んにした要因でした。

記録によると、紀州・湯浅でしょうゆの醸造方法を修得した高橋文右衛門が、「1804年(文化元年)36石6斗のしょうゆを醸造販売した」とあります。このようにして江戸後期に興ったしょうゆづくりは、明治維新になってから急速に発展し、昭和初期には合わせて百数十軒のメーカーがありました。
1907年(明治40年)に、「丸金醤油株式会社」(現マルキン忠勇株式会社)が設立され、5大メーカーのひとつとして、現在に至っています。現在この他には、30社ほどのメーカーがあります。











