
1941年(昭和16年)7月に日米通商条約が破棄され、アメリカ向けの輸出が途絶えました。戦前のしょうゆ輸出はこの時点でほぼ終わったといえます。戦後の民間貿易が「連合国軍総司令部」(GHQ)により条件付きながら再開されたのは、1947年(昭和22年)8月15日でした。
しょうゆの輸出は、この段階で許可になっていましたが、国内の供給も不十分でした。食料品の統制配給が続けられているなかでは、輸出に向ける量的余裕がなかったのです。
1948年になると、国内のしょうゆ供給にも若干ながら余裕が出始め、しょうゆ輸出再開について検討され始めました。そして、貿易庁(当時)とキッコーマン、および戦前に日本食品の貿易を手掛けていた「太平洋貿易株式会社」の3者間で、しょうゆ輸出再開について協議がおこなわれました。

一方、1949年(昭和24年)4月23日、GHQは「1ドル=360円」の単一為替レートを決定し、同月25日から実施しました。
輸出しょうゆの規格は1948年9月に決定しており、レートも決定したことから18リットル入り1樽の輸出価格が 5.0ドルで許可されました。
1949年(昭和24年)6月28日、アメリカに向けてしょうゆが出荷されました。この年のしょうゆの総輸出量は1,160.2キロリットル。国内のしょうゆの自由販売の再開が1950年10月1日ですから、輸出の再開はかなり早い時期に行われたといえます。

しょうゆの世界的な普及の要因として、占領軍とのかかわりがあげられます。終戦後に進駐した連合国軍の人々、特にアメリカ人がしょうゆを好むようになり、そのしょうゆが使われた“日本の味”を伝え広めたからだといわれています。
また、進駐したアメリカ人と日本人女性のカップルがアメリカに渡り、日本のしょうゆの味を広めたと考えられ、戦前までの在留邦人だけの市場に加えて、欧米人の間にも市場が広がったことを物語っています。

しかし、対米輸出が途絶えた7年の間に、日系世帯では1世から2世へと世代交代が進み、加えて現地産の「アミノ酸しょうゆ」が浸透していました。したがって、新しい販路開拓なしには、輸出量をのばすことが難しい状況になっていました。つまり占領軍とのかかわりで、新需要層が生み出された一方で、かつての在留邦人系の市場に陰りが出てきたのです。
ただし「しょうゆの国際化」という観点からいうと、特に非アジア系の人々が、しょうゆの味を経験したことは、大きなプラスとなりました。

しょうゆ輸出が再開されて輸出量もしだいに増え、5年後の1954年(昭和29年)の輸出量は約1,725キロリットルでした。輸出再開後は、全体の80%以上がハワイを含むアメリカ向けで、これは戦前の輸出が中国中心であったのと比べると、大きく変わった点といえます。
アメリカのしょうゆ市場は、前述したとおり、戦前と違って非アジア系の人々への市場対応ばかりでなく、在留邦人を含めた日系人市場の変化にも対応しなくてはならず、まったくの新市場開拓と変わらなかったのです。
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