「醤」(ひしお)の時代

日本の調味料、しょうゆ

江戸時代、狂歌師・大田蜀山人は、

世を捨てて 山に入るとも味噌醤油
酒の通ひ路 無くてかなはじ

と詠みました。古くから日本の味をつくり、日本人の食生活になくてはならなかったしょうゆ。ここでは、そのルーツと発展の歴史を探っていきます。

しょうゆのルーツ、中国の「醤」

しょうゆは日本で発展した発酵調味料ですが、そのルーツを探ると、中国の「醤」にたどりつきます。人々は食物を塩に漬けて保存するうち、発酵・熟成してうま味を持つことを体験的に知りました。それが醤の起源といわれています。

醤についての最初の文献は、中国の古書『周礼』(しゅらい:紀元前11世紀頃、周王朝初期の記録書)とされています。また、孔子の『論語』(紀元前6世紀)にも、「その醤を得ざれば食らわず」(食物それぞれに適した醤が手に入らなかったら食べない)と記されています。

歴史のこぼれ話

中国以外にも古代ローマには、ガルムという一種の醤があったといわれますが、魚の塩漬けの汁を発酵させたものという以上のことは、わかっていません。

また『聖書』にも、これに類したものがみられます。しかしその後、ヨーロッパの醤は早々と姿を消してしまいます。気候風土の違いや食生活の違いなど、様々な要因が考えられます。

肉醤・魚醤

中国の古書『周礼』によると、政府の宴会用として、醤が百二十甕(かめ)備えられていたと記されており、なくてはならないものだったことがうかがえます。しかしここに書かれている醤は、獣・鳥・魚などの肉を原料とした塩辛の類であり、大豆を原料としたものでなかったようです。文献でみる限りこの頃の醤は、肉醤(ししびしお)または魚醤(ししびしお)だったということです。

肉醤・魚醤から、穀醤へ

穀醤(こくびしお)が最初にあらわれるのは、中国湖南省から出土した紀元前2世紀(前漢時代)のとされています。そして紀元1世紀(後漢時代)『論衡』に豆醤の記述が、さらに6世紀中頃(南北朝時代)『斉民要術』のなかに大豆にコウジを加えて醤をつくる方法が述べられています。
このように周時代から前漢以前までは、肉醤または魚醤、前漢時代からは穀醤が併用され、以後穀醤が主流を占めるようになりました。

歴史のこぼれ話

肉・魚醤よりも穀醤が多く用いられた背景としては、次のことが考えられます。穀醤となる大豆は肉・魚に対して比較的安価であり、大量生産も可能でした。また輸送・保存も容易で、食味、特に香味に優れていたせいでしょう。

日本の「醤」~縄文末期・大和時代

日本では醤の類いが、縄文時代末頃からあったといわれています。果物・野菜・海草などを材料とした草醤、魚による魚醤、穀物による穀醤の3種があったようですが、やはり本格的に醤がつくられるようになったのは、中国からの「唐醤」(からびしお)や、朝鮮半島からの「高麗醤」(こまびしお)の製法が伝えられた、大和朝廷時代頃のことでした。

歴史のこぼれ話

果物・野菜・海草などを材料とした草醤は、後に漬け物に発展し、魚による魚醤は塩辛の原型となりました。秋田地方の「しょっつる」や能登半島の「魚汁=いしる」なども、「魚醤」の流れをくむものとされています。

奈良・平安時代

奈良時代の『大宝律令』によると、醤院(ひしおつかさ)という役所が設けられ醤を専門につくっていました。また醤の種類も増え、原料も大豆、米、麦などが用いられ、市場で売られていたといわれています。

さらに平安時代には、貴族の宴会では手元の皿に塩、酢、酒と並んで醤がおかれ、『四種器』と呼ばれて貴重な調味料だったと推定されます。そして平安京の東の市には醤店、西の市には味噌店が設けられ、醤に漬けた各地の魚も売られていたそうです。また役人の給与の一部として、醤が支給されたともいわれています。

歴史のこぼれ話

「醤」のなかでも、直接しょうゆに結びつくのは「穀醤」ですが、特にその製法が唐から伝わった「唐醤」は、大豆からつくると解されています。『倭名類聚鈔』(わみょうるいじゅしょう)の醤の項目には、「別に唐醤あり、豆醢(まめびしお)なり」と記され、大豆を加熱処理した後、麹、塩、水を加えて粥状にし、発酵させたものと考えられており、初めはしょうゆとみそがはっきり分かれていなかった、と推測できます。 また、平安中期に書かれた『延喜式』では、「末醤」「味醤」を「みそ」と呼び、醤(ひしお)が発展したものと考えられます。末醤はその後16世紀に「味噌」(噌は日本の造字)となった、といわれています。

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