「抱擁」
ちょっとした理由があって、ボイストレーニングを受けることがあった。
慣れない「ニューヨーク・ニューヨーク」を練習し、
高音で顔を歪めて歌うと若い女性の先生に咎められた。
「あなたが気持ちよくなってどうするんですか」と。
感動は聴く側にして頂くものだと。
そう言われてみると、シナトラも美空ひばりも、
三代目市川猿之助もエリッククラプトンも山口百恵も、大物は皆淡々としている。
石川直樹という最年少で七大陸最高峰を登頂した写真家は、
山の写真は撮りにいってはいけない、
キャッチャーのようにカメラを構えて受け取るのだ、というようなことを言った。
とても静かな話しである。
私は天玉そばがとても好きだ。
数あるそば屋の中でも、軽井沢駅の立ち食いそばおぎのやをリピートするが、
先日とあるおじさまが一人「うまい、、」を三度呟いた。
狭い店内が平和で満たされた。
天玉そばがうまい理由を分解して考察してみると、
そこに醤油の存在が立ち現れてくる。
そばも天ぷらも玉子も出汁も夫々にスター級なのだが、
それらは醤油があって初めて成立する。
醤油がそれらを結び引き立て、われわれの味覚を静かに受けとめ癒してくれる。
手を上げず、愛してるよなどとも言わす、叫けばず、そこに居る。
Soup Stock Tokyoのいちばん人気である東京ボルシチには、
こっそりと醤油が忍んでいる。
20年その座を黙って支え続けている醤油には、いつか御礼を言わなくてはいけない。
さて、また立ち食いそばに行くだろう。
いつもの天玉そばを頼んで、醤油に受け止められながら、
百恵さんの淡々とした微笑みを思い起こそう。
うまい、と呟くことができれば、誰もが平和に包まれるはずだ。