醤油仲間 / エッセイ

「しあわせの香り」

平松 洋子

おしょうゆって、考えて選ぶというより、
「“自分の味覚”と“ふだん作る料理”に合う」ものが選択のポイントになる気がします。
私の場合は、淡口しょうゆと濃口しょうゆを揃えているんですが、
いずれかにこだわらず、両方を組み合わせて使うことも多いです。
初めは淡口で味付けし、最後に濃口を少し入れると、香りがふわっと立ち、
風味の輪郭がくっきりします。
素材そのものを味わいたいときは、淡口だけ。
おしょうゆが後ろから背中を押してくれるような使い方が好きですね。

物書きとして、若い頃から世界各地を取材で訪れる中で、
スパイスを使ったり、味が複雑だったりする方が美味しくなる
と思っていた時期もありました。
東南アジア一帯は特によく通いましたが、
例えばタイやベトナム料理の複合的な味、気候風土から生まれ育った食文化を
解きほぐしていく文化人類学的なアプローチはとても勉強になったし、
大きな影響を受けました。

ただある時、自分の中の概念が根こそぎ変わるような出来事があって。
今はもうなくなってしまったのですが、虎ノ門にあった割烹料理のお店でのことです。
お昼に出されている鶏のから揚げ定食があまりにも美味しくて、
懇意にしていたご主人に
「下味には何を使っていらっしゃるんですか?」と訊いてみたんです。
そうしたら、「しょうゆだけ」。
おしょうゆの塩分と香りがあれば最高に美味しくなります、と店主が仰って。
もう、それは本当に衝撃でした。
調味料をたくさん使うことが美味しさの鍵ではない。
シンプルでも、効果的に使えば調味料も素材も光る
……新たな扉が開いたような感覚を抱きました。

それから何年も経った今でも、
おしょうゆのいちばんの魅力は、やっぱり香りだな、って思います。
私はおすましがすごく好きなんですが、
おすましを作っている時にもしょうゆの凄さを実感します。
葱、人参、牛蒡、何でも細く切ってたっぷりのお出汁で煮て、
仕上げにおしょうゆを垂らすと香りがふわっと立ち昇って、
素材とおしょうゆの風味が一体になる。
あの瞬間が、すごく好きです。
おしょうゆに火を入れた時に風味がどう立つかは、
しょうゆの持つ個性によって変わりますよね。
私は、淡口しょうゆはずっと同じものを一升瓶で取り寄せているのですが、
濃口しょうゆは小瓶で買い、その時々で違うものを試すようにしています。
おしょうゆの個性によって、
火を入れた時の風味ががらっと変わるから料理にも変化が出る。
おしょうゆによる違いもまたうれしいものです。

料理をしていて、おしょうゆを入れたその瞬間の香りを感じることや、
一瞬にしてふっと物事が変化するのを自分で捉えるということは、
やっぱり台所に立つ者の特権ですよね。
自分だけが知っている喜び。 料理をする楽しみは、
リアルな驚きや発見に支えられているんだなと思うことが、よくあります。

平松 洋子(作家、エッセイスト) (ひらまつ ようこ)

東京女子大学文理学部社会学科卒業。食文化や暮らし、文芸をテーマに執筆活動を行う。『買えない味』(筑摩書房)で第16回Bunkamuraドゥマゴ文学賞受賞。『野蛮な読書』(集英社)で第28回講談社エッセイ賞受賞。『父のビスコ』(小学館)で第73回読売文学賞受賞。近著に『ルポ 筋肉と脂肪 アスリートに訊け』(新潮社)など。