キッコーマン食文化講座

流山のみりん醸造 ~万上みりんと天晴みりん~

日程 2010年12月13日
場所 野田本社
講師 川根正教先生
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

流山のみりんは様々な書物に記載されているとおり、その名が全国的に知られていました。第3回では、2大ブランドである堀切家の「万上みりん」・秋元家の「天晴みりん」について、その歴史をみていきます。

堀切家の商標「万上」は、2代紋次郎が詠んだ「関東の誉れはこれぞ一力で上なき味淋醸すさがみや」の一力を「万」、上なきの「上」で「万上」としたものです。秋元家の商標「天晴」の由来は明らかではありませんが、その書体は明治31(1898)年に小松宮彰仁親王が揮毫したものを使用しています。

堀切家は、3代堀切浅右衛門の三男紋次郎が、明和3(1766)年、番匠免村(三郷市)から流山に移住して堀切紋次郎家を興し、酒造業を営みました。秋元家は、明暦期から寛文期(1655~1673)にかけて、鶴ヶ曽根村(八潮市)から流山に移住し、4代三左衛門の時に豆腐加工の傍ら、酒造を行っています。

流山で酒造業が始められたのは最も古い記録では享保年間になりますが、堀切家・秋元家ともに酒造株を入手したのは寛政2(1790)年です。この頃の江戸では、伊丹・池田、灘など摂泉十二郷と呼ばれる地域の下り酒が、菱垣廻船・樽廻船で大量に運ばれていました。松平定信は寛政の改革の一環として、下り酒の江戸入津を制限し、寛政2(1790)年から天保4(1833)年まで、下り酒に負けない品質の御免関東上酒を関東の酒屋に造らせようとしました。堀切家・秋元家ともに、御免関東上酒の醸造を行っています。しかし、文化・文政年間は豊作が続き、幕府は文化3(1806)年に勝手造り令を出し、この結果、摂泉十二郷の江戸積樽数が100万樽を超え、堀切家は「文化年代の中頃、酒造業衰微」と記録しています。

みりんが何時から造られたかについては、諸説存在します。弘化2(1845)年に清宮秀堅が著した『下総国旧事考』に、「近来出精醇九醞酒、為三都冠」とあり、遅くとも天保年間初頭(1830年代初頭)までには、流山で造られたみりんが江戸・京都・大坂で評判になっていたことが明らかです。吉田東伍は、明治36(1903)年の『大日本地名辞書』で、「流山味醂は安永年中に起り、江戸に販りて大に声価を博したる」と記し、大正12(1923)年の『千葉県東葛飾郡誌』では、「当地醸造家秋元三左衛門氏ノ創業ハ今ヨリ百十八年前即ち天明二年ニ月、堀切紋次郎氏ノ創業は寛政七年十月ナリト。」としています。

しかし、酒造業の流れの中で考えれば、『野田醤油株式会社二十年史』に「二代堀切紋次郎(幼名伊之松)二十七歳の時野田高梨家の後援を得て、文化十一年発売を開始した」と記述されているとおり、文化・文政年間にこそ、みりん醸造の第一の画期があるとするのが妥当ではないでしょうか。まさに、江戸料理文化が成熟した時期に一致します。