キッコーマン食文化講座

浮世絵と江戸の食文化(Part 1) ~浮世絵の楽しみ方~

日程 2014年11月8日
場所 野田本社
講師 車浮代先生
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

1.浮世絵の発祥

元来、浮世絵の「浮き世」とは今=現世を表し、昔は「憂き世」と書いた。これは仏教的厭世感によるもので、この世は辛く生きにくい、憂(うれ)うべき世の中だ、と説いたもの。
江戸幕府が天下を治め、平和が訪れると、人々の心は活力を取り戻し始め、「浮き世」という言葉が誕生する。つまり、この世は辛く生きにくい「憂き世」などではなく、浮き浮きと心躍る世の中なのだ、という、希望を込めた言葉である。
「浮き世」はたちまち流行語となり、「今風」、「当世風」という意味で、目新しいものには何でも「浮世○○」とつけられるようになった。このような風潮の中、現在の様子を描いた「風俗画」は「浮世絵」と呼ばれるようになる。

「浮世絵」は風俗画の全てを指す。手で描いた肉筆画も、北斎や写楽や歌麿の多色摺り木版画も、全て浮世絵である。
室町時代、風俗画が誕生する。公家方の土佐派、武家方の狩野派の二大流派が画壇の中心となる中で、庶民の姿を生き生きと活写する絵師が登場した。今日では浮世絵の創始者と呼ばれる「岩佐又兵衛(1578~1650)」である。又兵衛の父は、織田信長に反逆したため、一族郎党滅ぼされた荒木村重。

又兵衛が亡くなって以降、彼の「背景をなくした人物画」をさらにつきつめ、女性の一人立ちの絵を描いた絵師が現れた。記念切手の図柄としても有名な「見返り美人」の作者、「菱川師宣(ひしかわ もろのぶ)」(1618~1694)である。
この作品によって、彼は「美人画の創始者」とされるが、別にもう一つ、浮世絵界で重要な役割をになっている。
それまで、ほとんど文字しか摺られてこなかった木版画の世界で、初めて風俗的な挿絵を描き、その挿絵があまりに素晴らしいので、絵だけが独立した商品として販売されるようになった。従って、菱川師宣は「浮世絵版画の創始者」でもある。
師宣によって確立した浮世絵版画は一世を風靡し、彼に追従する絵師が多く出始めた。

浮世絵版画が装飾品として制作されるようになると、墨一色の版画では物足りず、ぬり絵のように一枚一枚、手で色を塗った作品が販売されるようになる。
墨一色で摺ったものを「墨摺絵(すみずりえ)」と呼ぶのに対し、手で色をつけたものは、何で塗ったかによってそれぞれ呼び名が違っている。
古いものから、丹(たん)とよばれる朱色の鉱物(硫化水銀)を使った「丹絵(たんえ)」、漆で艶やかに彩色した「漆絵」、草や木の汁を絞った、染料絵具でカラフルに塗られた「紅絵(べにえ)」などである。

だが、手彩色では手間と時間がかかってしまう。人々は、色も木版画で摺って、大量生産できないものだろうか? と考え、二色程度の色を版画で摺った「紅摺絵(べにずりえ)」が誕生するが、この頃はまだ、ベタっと色を乗せただけで、濃淡のない、色紙を貼ったような単純な作品でしかなかった。
「紅摺絵」から、現在私たちがよく目にする、歌麿・写楽・北斎・広重などの、多色摺りの浮世絵版画に進化するには、実はある大きな技術革命あった。

明和二年(1765)、江戸の町はサロン文化に華やいでいた。
旗本や大商人などの富裕層が、料亭の二階座敷などを借りて、「○○連」という狂歌や俳句などの趣味の会を作り、交流していたのである。この年、サロン同士で絵暦(えごよみ=カレンダー)の交換会が流行した。
江戸時代は、月の満ち欠けで日時を決める、太陰暦が使われていた。一カ月は大の月(30日)と小の月(29日)のどちらかしかなく、また、人々は晦日(みそか=毎月の最終日)がいつであるかさえわかっていれば暮らしていけた。
よって、初期の頃のカレンダーは「大小暦(だいしょうごよみ)」といって、「大/二・五・八・九・十一・十二」「小/正・三・四・六・七・十」というように、数字だけが書かれたものであった。

文字だけの木版画が、風俗画の入った浮世絵版画に変わるにつれ、大小暦にも挿絵が入るようになり、やがて、絵の中に数字が隠されるようになった。これを「絵暦」と呼ぶ。
絵暦には、大の月か小の月、どちらか片方の数字が絵柄に組み込まれている。片方だけわかれば、そこに描かれていないのがもう片方の月、ということになるので、半分わかれば十分だった。
俳句の会を主宰し、絵暦交換会の頭取を務めた、「巨川(きょせん)」という俳号を持つ旗本・大久保忠舒(ただのぶ)は、自分の会の絵暦が一番になることに情熱を燃やした。
巨川は財力に明かして、自分がこれと見込んだ売り出し中の絵師と、一流の摺師と彫師を雇い、プロジェクトを組ませた。
絵師の名は、「鈴木春信(すずきはるのぶ)」(1725-1770)。この時、春信の近所に住み、交流があったことから、日本のダ・ヴィンチとも呼ばれる天才発明家、平賀源内(1728~1780)がプロデューサーとして力を貸したという説が有力である。
このチームは試行錯誤を重ね、ついに誰も見たことがない、色鮮やかな絵暦を完成させた。手で着色した時よりも鮮やかで、中国の錦織のように美しいという理由で、これ以降、多色摺浮世絵版画は「錦絵(にしきえ)」と呼ばれるようになった。

この多色摺りを可能にしたのが「見当(けんとう)」の発明である。見当とは、版木の右下隅と中央下の二カ所に彫った鉤(かぎ)のことで、ここに紙の端をうまく合わせると、何色摺り重ねても色がずれない、というもの。ちなみに、「見当違い」「見当がはずれる」の見当は、ここから派生した言葉。
また、摺り重ねても破れない強い紙の研究や、絵の具や彫摺の技術の研究などもなされた。この時に、以降100年に及ぶ錦絵の技術革新は、ほとんど完成されていたように見える。
プロジェクトの成功により、鈴木春信の名は、一躍有名になった。春信の絵暦の素晴らしさに目をつけた版元は、暦の数字を削って、美人画として売り出した。
以降、春信の錦絵は一世を風靡し、現在では、「錦絵の創始者」とされている。

2.浮世絵の技法と役割

錦絵の誕生により、江戸の町では瞬く間に錦絵の製作システムが確立されていった。
それは現在の出版や印刷のシステムと、ほとんど変わりないもので、版元(今で言う、出版社と本屋が一緒になったもの)が出版物の企画を立て、絵師・摺師・彫師それぞれに発注するというものである。

版元=クライアント
絵師=クリエイター
彫師=製版スタッフ
摺師=印刷スタッフ

というように置き換えられ、一枚の錦絵を作るのに、多くのスタッフが関わっていた。
まず、版元が企画に合わせた絵師を選び、墨一色の版下絵を描いてもらう。OKならば幕府の出版許可を得て、版下絵を彫師に渡す。
彫師は、版下絵の表面を内側にして、版木に直接貼りつけてしまう。つばをつけて絵師の筆跡が見える極限まで、和紙の余分な繊維をこすり取り、絵師が描いた線を残して他を全て彫り上げる。この版木を主版(おもはん)という。
これを摺ると、版下絵と全く同じものが摺り上がる。これを墨摺絵(すみずりえ)と呼び、彫師は墨摺絵を色数分摺る=校合摺(きょうごうずり)。
校合摺は絵師に渡され、絵師は1枚につき1色ずつ、朱色で色指し(=色指定)する。
色指しされた校合摺は再び彫師に戻され、朱色の部分だけを彫り残した色板を彫る。
彫り上がった主版と色板は摺師に渡され、絵師の立ち会いのもと、試し摺りが行われる。OKが出ると、一杯(200枚といわれている)単位で初摺りが完成する。
完成した錦絵は、版元が経営する絵草子屋等で販売される。

彫師は分業制で、親方が毛割(けわり)と呼ばれる髪の生え際や、頭彫(かしらぼり)と言われる人の頭全体、もしくは主版を担当し、腕前によって弟子たちが残りの板を彫り分ける。
反して摺師は、一人の摺師が一枚の錦絵の摺りを最後まで担当する。これは、紙の渇き具合によって膨張度が変わってしまうため、途中で手を休めることができないから。摺師の中には、摺り箱をかついで現場を回る、一匹狼の摺師もいた。
それぞれ、一人前になるには摺師は3年、彫師は10年かかると言われている。1ミリの間に髪の毛3本を彫り、目詰まりさせずに摺る技術はまさしく神業である。

浮世絵は、今でこそ美術品として扱われ、有名絵師の名作は数千万円という値段で取引されているが、当時はかけそば一杯と同等、現在の価格にして1枚500円前後で販売されていた。
つまりは単なる印刷物でしかなく、美人画や役者絵はブロマイド、風景画は絵葉書ほどの価値しかなかったのである。

他にも、相撲絵、武者絵、おもちゃ絵、新聞絵、死絵(しにえ=有名人が亡くなった時に出す肖像画)、双六などの一枚ものから、団扇絵、立版古(たてばんこ)、柱絵、張交絵(はりまぜえ=切り取って、障子や襖の穴をふさぐために貼るもの)など、加工して使うもの、名所絵集や図鑑など、あらゆる印刷物が木版画で摺られた。

3.有名な版元と浮世絵師

江戸中期、江戸の出版界に旋風を巻き起こした男がいる。
歌麿や写楽をプロデュースして世に送り出し、北斎や馬琴や一九を育てた希代の版元・蔦屋重三郎である。
吉原の茶屋で生まれ育った彼は、やがて大門前に貸本屋を出し、吉原細見(吉原のガイドブック)の名編集長となり、版元になり、わずか10年程度で日本橋の通油町(とおりあぶらちょう)に店を構えるまでに大出世した。

その後も次々と新たな出版物を企画し、出版し、さびれかけていた吉原遊郭の復興にも務めた。
本の巻末に次号の予告や、自社の出版物の宣伝を入れたのは、世界で最初に蔦重が始めたことである。

江戸年間に浮世絵師は2000人程度いたと言われており、世間的に名前が通った絵師はごく一部でしかない。
長らく六大浮世絵師と言われていた、鈴木春信、鳥居清長、喜多川歌麿、東洲斎写楽、葛飾北斎、歌川広重は、明治の詩人で海外生活の長い野口米次郎(彫刻家のイサム・ノグチの父)が、欧米人の好みに合わせて制定したもので、江戸当時の人気とは多少ズレがある。
特に写楽は、活動期間も10カ月弱と短く、幕末にはほぼ人々の記憶から消えていた絵師だった。ところが1910年、ドイツ人のユリウス・クルトが著書『Sharaku』で、写楽をレンブラントやベラスケスと並ぶ「世界三大肖像画家」と絶賛したため、逆輸入の形で日本でも有名になった絵師である。
昨今は七大浮世絵師として歌川国芳の名が入るようになったが、有名絵師を挙げる際、当時最大の作品数と人気を誇った歌川国貞(後に三代豊国)の名が挙がらないのはおかしい。

4.浮世絵が海外に与えた影響

1867年のパリ万博で、日本のブースは大人気となり、ジャポニスム・ブームが起こった。特に欧米人を驚嘆させたのは、浮世絵版画の斬新なデザインと超絶技巧である。
人々は浮世絵収集に熱中し、日本から大量の浮世絵が輸出された。
やがてそれらはパリ画壇で印象派と呼ばれる新しいムーブメントを起こすきっかけとなった。
現在日本でも人気のゴッホ、モネ、ルノワール、ロートレックなどはみな、浮世絵からさまざまなインスピレーションとヒントを得、写実主義から脱却し、独自の画風を確立していった。

江戸当時の日本では、浮世絵版画とは美術品ではなくメディアであった。
写真が伝来し、浮世絵版画はたちまち廃れていったが、今日我々は、浮世絵に描かれた情報から、さまざまな江戸の人々の生活を垣間見ることができる。

食生活もしかりで、当時の人々はちゃぶ台ではなく、箱膳を使って一人前ずつの食事をしていたことや、宴席での大皿料理、名物の寿司など、そこから得られる情報は計り知れない。

次回、江戸の人々の食生活について、浮世絵を使って詳しく紐解いてゆく。