過去の記録

野田本社 2016年3月26日

概要

講師

小嶋茂先生

何とも不思議な缶詰がある。ラベルを見るとInarizushi-no-moto(いなりずしの素)、Sukiyaki-no-tomo(すき焼の友)、Fukujinzuke(福神漬け)といったアルファベットで記載されている。現在流通している商品だ。いったいどこで作られ、誰がこのような缶詰を購入するのか。かつては、煮しめや焼蒲鉾、豆腐やタクワンの缶詰まであったという。

横浜の海外移住資料館常設展示には、ヨロズヤのコーナーがある。アメリカのオレゴン州ポートランドから100キロほど内陸にある、フッド・リバーという町に実在した安井兄弟商会の再現である。この日系商店で扱われていた商品や関連資料の数々が展示されている。そこにも缶詰の広告がある。

ヨロズヤとは、北米に移住した日本人移民が食品を中心として日本から様々な雑貨を輸入し販売した食品雑貨店のことを指す。ただし、事業は食に限らず広範にわたり、現在の総合商社のような業務を行っていたところが多く、まさにヨロズである。その貿易を「タクアン貿易」と呼んだ。海外へ移住した日本人移民は、すでに19世紀末から食品や雑貨を輸入しており、その伝統は現在にまで引き継がれている。安井兄弟商会は決して大きな店ではない。しかし、今までの調査で、アメリカ国内の7都市にある43店、そして日本の4店とも直接取引が行われていたことが分かっている。

その頃ポートランドには、古屋商店や伴商店、松島商店などがあった。松島商店は戦後、店名を安全商会と変え、2014年まで営業していた。冒頭の缶詰は、その安全商会の食品売り場に陳列されていたもので、日本で作られている。残念ながら閉店した安全商会だが、その店構えは単なる食品雑貨店ではなかった。その中をしばらく眺め歩いて時間を過ごすと、歴史を感じさせる品々があちらこちらに残されている。そして人々が行きかい交流していることが分かる。個人連絡板があり、求人・イベント情報が掲示され、「寄り合い」場所として、日系コミュニティの情報交流センターの役割を果たしていることが理解できる。これこそがヨロズヤのヨロズヤたる所以である。こうしたヨロズヤが過去にはどれくらいあったか。1909年のデータでは、食料品関係の日系商店がアメリカ全土で590あった。この年の日系人人口が98,715人とあることから、およそ167人に1店の割合で食料品関係の店舗があった勘定になる。確とした日系コミュニティの存在が伺える。

横浜にあった駒田商店は、サンフランシスコで北米貿易株式会社を興し、北米各地の日系人とつながりがあった。その交流を示す様々な資料が残っている。横浜は移民宿だけではなく、タクワン貿易と関わりをもつ商店の日本側基地でもあった。

こうした移民と日本を結んだタクワン貿易の伝統が、現在の日本食伝播の礎となっている。これをホップとすれば、ステップは第二次大戦後の戦争花嫁である。全米各地へ帰還した兵士とその日本人花嫁は、西海岸以外の地で日本食の需要をもたらし、そのルートを開拓していった。そして1977年に出されるいわゆる「マクガバン・レポート」、アメリカ上院栄養問題特別委員会報告書がジャンプである。これにより、食生活改善のための理想的な食事は日本食であるとの推奨が広まる。そしてそれが各国各地での日本食ブームへとつながっていく。

移住先の移民がすべて日本から食品を輸入していたかといえば、そうではない。例えばブラジルの場合、高い関税が輸入を妨げていた。輸入があったことは事実だが、ほとんどの場合、自分たちで工夫を凝らしていくしかなかった。移住先の新しい環境のもとで、とくに家庭の婦人たちは試行錯誤を繰り返してきた。梅干しの代用品として生み出された「Hana ume(花梅)」は、現在も作られ続けている。地方に行けば、今でも味噌や醤油、コンニャクを家庭で作っている婦人がいる。どのようにして自分たちの嗜好にあい健康的な食生活を維持し、伝えていくか。今少しずつその発掘作業が進むとともに、伝承の取り組みが進められている。

以上

2016年3月26日
キッコーマン国際食文化研究センター