トップ > 館内展示 > 過去の展示一覧 > 醤から醤油へ しょうゆ発達小史

 

過去の展示

-醤から醤油へ-しょうゆ発達小史

KIKKOMAN ARCHIVES
15~16世紀
精進料理と懐石膳
 建久2年(1191)、僧栄西が大陸から持ち帰った抹茶法は、室町時代に入ると茶会に発展し、禅の思想などが影響しながら茶道として確立していった。
 そして茶道の席で提供される料理は、派手さばかりで食材本来の旨味を引き出すことのない平安朝以来の伝統的な膳(大饗料理)を否定し、簡素で雅びやかな雰囲気を秘めた膳を追求した。そうした膳の実現のために、食材や調味料、調理方法の工夫と改善が行なわれた。
 その一方で禅宗の普及は、禅院を中心とした精進料理の発達をうながし、特に「未醤 みそ =味噌」が煮物料理の調味料として多く取り入れられ、料理の幅が一段と広がった。この精進料理が茶道のいう「枯淡閑雅の茶会席膳」として結びつき、禅宗と茶道が互いに影響し合いながら茶会席膳が完成し、やがて懐石料理へとつながってゆく。
「垂れ味噌」と「唐味噌」
 こうした状況の中で調味料では、「未醤=味噌」の発達により「垂れ味噌」(薄垂 うすた れ)が登場する。「垂れ味噌」というのは、江戸時代初期の『料理物語』(寛永20年<1643>刊)によれば、「味噌一升に水三升五合を加え、三升になるまで煮詰め、袋に入れてつるし、垂れ出る液汁を集め」た液体調味料である。
 「垂れ味噌」を使った料理については、『四条流庖丁書 しじょうりゅうほうちょうしょ 』(長享 ちょうきょう 3年<1489>奥書)、『山内料理書 やまのうちりょうりしょ 』(明応6年<1497>奥書)、『庖丁聞書 ほうちょうききがき 』(室町末頃)、『山科家礼記 やましなけらいき 』(明応元年<1492>8月2日条)などの諸史料に数多く見られる。
室町時代の台所の様子(『酒飯論絵巻』)
室町時代の台所の様子(『酒飯論絵巻』) まな板と庖丁刀で調理する料理人は、まるで「庖丁式」をしているようである。まな板では水使いはなく、外で魚や鳥を処理したあと、まな板に乗せている(国立国会図書館所蔵)
 一方、文明 ぶんめい 10年(1478)から元和 げんな 4年(1618)まで、奈良・興福寺の塔頭 たっちゅう ・多聞院 たもんいん の僧たちによって書き継がれた『多聞院日記』には、味噌や醤 ひしほ の製法が具体的に記録されており、当時の味噌や醤の姿を知るうえで、貴重な史料とされている。
 それらは「吉ミソ」「大ハミソ」「唐味噌 とうみそ 」で、その名前と製法を知ることができる。
 このうち「唐味噌」は、製法の確立はしていないためか、様々な工夫がされている。そのうちの一つは、煮た大豆と炒って粉にした麦を混ぜて麹 こうじ をつくり、塩水を加えて仕込む、という江戸期以降の醤油の醸造法と似ている点で注目できる。この「唐味噌」と江戸時代前期の文献にある醤油製法を比較したのが「図表-2」である。この史料から「唐味噌」は、その後の醤油の先駆けをなしていたと見ることもできる。
図表-2:「唐味噌」と江戸初期の「醤油」との原料割合比較
資料名 品名 原料の割合(%) 成立年代
大豆
多聞院日記 唐味噌 17~18 17~18 17~18 47~48 1478年(文明10年)
~1618年(元和4年)
料理物語 正木醤油 19.6 25.5 15.7 39.2 1643年(寛永20年)刊
日本歳時記 醤油 19.2 19.2 19.2 42.3 1687年(貞享4年)序
本朝食鑑 醤油 約22 約22 約22 約34 1695年(元禄8年)跋
和漢三才圖會 醤油 18.2 18.2 18.2 45.5 1712年(正徳2年)序
※飯野亮一「醤油の歴史 3」(『FOOD CULTURE No.3』所載)より
 しかし『多聞院日記』の中で「唐味噌」の名が使われている天文 てんぶん 19年(1550)には、他の文献ですでに「シヤウユ」という名が使われているのに、なぜ「唐味噌」と記されているのか、また「唐味噌」と「シヤウユ」の関係はどうなのか、まだ判っていないことが多い。
 残された諸史料から推定すると「垂れ味噌」は、味噌の2次加工品で、「醤油」は原料処理の段階から「醤油」という調味料をつくることを目的とした1次加工品という違いがある。
 いずれにしても、室町時代に入り、後の「醤油」に近い「醤油様 よう 」の調味料である「垂れ味噌」や「唐味噌」が現れたのである。
「醤油(シヤウユ)」の登場
 日本では『易林本 節用集 えきりんぼん せつようしゅう 』(慶長2年<1597>奥書)に、初めて「醤油」と漢字で書いて「シヤウユ」と読ませる語が登場することは、よく知られている。「節用集」というのは、15世紀中頃以降成立した国語辞書の総称である。
 わが国では16世紀に入ると、節用集や日記類に「シヤウユ」の語が見られる。
 16世紀初頭頃の『文明本 ぶんめいぼん  節用集』では「漿醤」を「ショウユ」と読んでいる。次いで『鹿苑日録 ろくおんにちろく 』の天文5年(1536)6月28日条に「漿油を子サス(麹をつくる)」とある。永禄11年(1568)10月25日条の『多聞院日記』には「長印房へ醤油を持参した」という記述がある。これがわが国における「醤油」文字の初出であるが、当時これをどのように読んだのかは判らない。
 そして、前述したように、『易林本』に至って、初めて、「醤油(シヤウユ)」が記されるのである。この『易林本 節用集』は、文明年間(1469-1487)につくられたものを慶長2年に伝写したと推定されており、著者の易林は建仁寺の僧侶であったともいわれている。こうした国語辞書の類に記述されていることは、わが国では16世紀後半頃に「醤油」(とはいっても、現在の溜 たま り醤油に近い濁った液と考えられる)が、日常生活の中に登場し始め、同時に「醤油(シヤウユないしシヤウユウ)」という物とその名前が一般化していったと考えられる。
『易林本 節用集』(慶長2年<1597>奥書)
『易林本 節用集』(慶長2年<1597>奥書)室町時代中期の文明年間(1469-87)の文書を伝写したものといわれている
15~16世紀