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浮世絵と江戸の食文化(Part2)―浮世絵にみる江戸の食―

野田本社 2015年1月17日

概要

講師

車浮代先生

■日本料理の発祥

・日本最古の料理の記述は「日本書紀」にあります。(奈良時代に成立した日本の歴史書。養老4年(720年)に完成)
「(景行天皇は)冬十月、上総の国に至ります。海路より淡水門(安房)を渡ります。是時に覚賀の鳥の声聞こゆ。其の鳥の形を見そなはさむと欲して尋て海中に出でます。仍て白蛤を得給ふ。是於膳臣の遠祖、名は磐鹿六鴈(いはかむつかり)、蒲を以て手繦に為て、白蛤(うむぎ)を膾(なます)に為りて進る。故れ六鴈の功を美め給ひて膳大伴部(かじはでのおほとものへ)を賜へり。十二月東国より還りまして、伊勢に居します。是を綺宮と謂す。」 

 つまり白蛤の刺身を調理して景行天皇気に入られたことで、磐鹿六鴈は料理大臣に任命された、という逸話です。千葉県千倉にある高家(たかべ)神社は、磐鹿六鴈を祀った日本で唯一の料理の神様で、調理人志望者が多数訪れ、毎年秋には四条流庖丁式が行われています。

■日本料理は「切る」文化

「割烹」は「割主烹従《かっしゅほうじゅう》」を略した言葉です。割(切る)のが主で、烹(調理する)は従。会席料理の献立も、刺身を何にするか決めてから、焼き物や煮物、揚げ物などを決めます。板場のランクを見ても、切るのは板長(親方)の役目です。

西洋料理は調理後に切って食べるのが基本ですが、アジア料理は切ってから調理し、箸を使って食べます。切るのは料理人の仕事です。ちなみに、ウインナーが箸で食べやすいよう、切り込みを入れたのは日本の発明です。
中でも日本の麺文化は独特で、うどんやそばのように、伸ばさずに切る麺というのは珍しく、中国の「刀削麺」ぐらいです。
「切れ味」という言葉があるように、切り方によって刺身の味が変わることが分かるのは、日本人の味覚の鋭さを表しています。

また日本人は、世界でまれにみる生もの好きで、生ビール、生チョコ、生絞り、生七味など、「生」を尊重する傾向にあります。わさびやしょうがなどの薬味も、生臭さを消すためのものですし、味噌や醤油といった調味料は、鮮度を保つために発達したといわれています。日本のように高温多湿な、食べ物の痛みやすい土地柄で、いかにおいしく生ものを食べるか。そこに日本の食文化の本流があるように思います。

味覚の基本である五味(甘味・酸味・塩味・苦味・旨味)についても、1903年に発見され、2000年にやっと認知された「旨味」というものを、日本人は古代より第一に考えてきました。鰹・昆布・干し椎茸からとる旨味成分たっぷりの出汁は、奈良時代にはすでに料理に使われていたのです。
グルメ大国フランスに初のレストランができる約100年も前に、日本で誕生していました。1657年、浅草にできた奈良茶飯屋がそうです

■江戸料理とは?

徳川家康が江戸幕府を開いた当初は、三河(愛知県東部)の田舎料理でした。塩と味噌と酢を使った素朴な料理で、かなりしょっぱかったといいます。そこに上方料理の文化が入り、水質の関係で昆布だしがうまく取れず、鰹だしが主流になり、鰹だしに合う濃口醤油の発明があり、地元の食材を使って独自に発展したのが江戸料理だといえます。
江戸料理が確立したのは、化政文化(1804~1829)。奇をてらい、見えないところで凝りに凝った料理から、余計なものをそぎ落としたシンプルな料理まで、一見華やかさはないけれど、上方料理にはない「粋」を感じます。
・冷蔵庫がない=旬の素材を使う
・燃料費が高い=調理に時間をかけない
・調理方法は切る・焼く・煮る=油をほとんど使わない
・肉をあまり食べない
つまり、栄養価の高い旬の食材を、あまり手をかけずにいただくということ。これが私の考える江戸料理の定義です。

■江戸庶民の食生活

・江戸の町では、一人一日五合の飯を朝炊きます(上方は昼に炊く)。
朝食は、その炊きたてのご飯と汁物と漬物。おかずや素材は、毎日棒手振《ぼてふ》り。豆腐、納豆、煮物、きんぴら、めざしなど、素朴なおかずが多かったようです。
昼食は、家で仕事をするなら朝の残り物。外に働きに出るなら弁当か屋台。鰻、天麩羅、蕎麦、寿司といった、今日の東京に数多くの老舗が残る四大メニューは、当時は屋台の定番で、いわば現代のファストフードといった感覚でした。寺子屋に行っていた子供たちは、昼には駆け足で食事のために帰ってきます。
夜は冷や飯を茶漬けにして漬物を添え、余裕があればおかずがつく程度でした。
ご飯がたくさん食べられるよう、たくあんなどは塩よりしょっぱかったといわれています。おかずが少ない上に、玄米やあわ・ひえなどの穀物を食べないため、ビタミンB1が不足し、江戸には脚気の患者が多く、「江戸わずらい」と呼ばれていました。
また、当時は箱膳文化で、食事時には、一人分の食器が収納された箱から食器を取り出し、箱のふたを裏返して膳にします。一つのテーブルを家族が囲むようになったのは、明治に入ってからで、長崎の卓袱料理(しっぽくりょうり)の影響です。

・「日々徳用倹約料理角力取組」という節約おかず番付には、当時の庶民が何を常食していたのかが、通年でランキングされている上、春夏秋冬の献立も、野菜物と魚介類にわけて知ることができます。

■江戸前の四天王

・江戸の町を代表する、屋台発のファスト・フードをこう呼びます。蕎麦・鰻・寿司・天ぷらの順に発展しました。
屋台の誕生は江戸中期以降のことで、地女(じおんな)(素人の女性)の数が極端に少なく独身男性が多かったこと、せっかちな江戸っ子気質、野田や銚子で濃口醤油が作られ始め、江戸っ子好みの味付けが確立したことなどが人気を博しました。

蕎麦は奈良時代にはすでにあった食材ですが、最初は蕎麦の実で作った「そば雑炊」や「そばがき」が主流でした。小麦粉をつなぎに使うことで、少し修行すれば蕎麦が打てるようになり、「蕎麦切り」が人気を博します。「蕎麦切り」は専門店ができ、お酒とおつまみを出すように。江戸末期には、一町に一軒以上の蕎麦屋がありました。

鰻は当初、ぶつ切りのまま串に刺して焼いていました。その状態が蒲(がま)の穂に似ていたことから「蒲焼き」と呼ばれるようになりました。非常に泥臭くて生臭く、精をつけるために仕方なく食べるものでした。
京都から、開いてタレをつけて焼く調理法が伝わってからは、爆発的人気に。山東京伝が「土用丑の日」というコピーを作ったことから、夏場の方が売れるようになり、現在に至ります。
上方が腹開き、武士の多い江戸では「切腹」を痛がり、背開きになったと言われています。
「うな丼」は、芝居のスポンサーの大久保今(いま)助(すけ)が、芝居見物中に出前で取る蒲焼が、冷めないようにおからに埋めて届けられていたのを、「これでは味が落ちる」とご飯に埋めたのが始まりです。

「握り寿司」が誕生したのは江戸後期。それまでは「なれずし」か上方生まれの「押し寿司」が主流でした。けれど作るのに時間がかかるため、酢飯にネタを乗せただけの「握り寿司」が現れると全国に広まりました。ネタは下味がつけられているものが多く、1カンがおにぎりぐらい大きく、屋台の付け台に並べて売られていました。

江戸前の天ぷらは、ごま油で揚げるのが特徴です。そのため、「ごま揚」とも呼ばれており、串で刺して食べました。具材は海老、鱚、めごちなどで、野菜のてんぷらはは「精進揚げ」と呼ばれて区別されていました。
 
安価ですぐに食べられる屋台で発展したこれらは、やがて独立した店を持ち、高級化して、現在和食を代表するメニューになっています。

以上

2015年1月17日
キッコーマン国際食文化研究センター