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海外在留邦人向けの輸出(明治、大正、昭和前期)

しょうゆ輸出の努力

江戸時代末期になるとヨーロッパへしょうゆを輸出するために「コンプラ瓶」が、年間約40万本も焼かれるほど、活況を呈していました。

しかし、幕末から明治維新になると安価な中国産しょうゆやインドネシア産しょうゆ(中国系しょうゆ)に押され、明治から大正および昭和前期のしょうゆの輸出は、主として海外在留邦人向けの範囲にとどまってしまいました。

1881年(明治14年)野田の7代茂木佐平治(「キッコーマン」印醸造元)は、しょうゆ販売会社の「東京醤油会社」を興し、同社員の一人をヨーロッパに派遣して、失った市場の奪回と新しい販路開拓をしました。この行動の背景には、当時生産過剰気味となっていたしょうゆの、需要拡大策の意味もあったのです。

日本のしょうゆは品質的に優れており、ヨーロッパでの評価は高かったものの(例えばイギリスではソースの原料として引き合いがあった)、価格的な問題や大量輸送に適さない和樽容器の問題などで、新たな販路の開拓が困難な状況にありました。

当時は小豆島や愛知県のしょうゆ醸造家たちも、外務省を通じて海外のしょうゆ市場の状況を調べるなどして、しょうゆ輸出に強い関心を示していました。

海外在留邦人向けの輸出

現存する資料からは、この当時海外における日本のしょうゆ購入者のほとんどは在留邦人で、中国人以外の現地の人たちは、ほとんど使っていなかったことがわかります。量的な問題は別としても、むしろ江戸時代の方が、日本のしょうゆは国際的であったと考えられます。

在ホノルル総領事からの1910年(明治43年)9月3日付の報告では「日本醤油の消費者は本邦人と清国人で、欧米人は一種の悪臭があるといって使用しない。明治43年8月から1年間の輸入量は83,894樽(約7,550石=1,359キロリットル)で、清国人への売れ行きがよいので、本年度は9万樽にのぼるだろう。云々」とあります。 また、同年9月1日付でサンフランシスコ総領事代理からの報告は「当地に輸入される醤油は、野田(の)醤油が最高で、その他は神奈川や東京周辺のものである。当地の日本人に合う醤油は、亀甲萬とヤマサである。年間の輸入量は約 7,000石(1,260キロリットル)で、亀甲萬は55%、ヤマサは15%である。云々」というものです。

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