「白みりん」という調味料を、ご存じでしょうか。
一般的にご家庭で使われている本みりん。
実はその元になっているのが、「白みりん」なのです。
江戸の中頃の下総国流山(現在の千葉県流山)。
その地で酒造業を営んでいた相模屋の二代目当主 堀切紋次郎は、
白みりんの生みの親であり、この物語の主人公です。

今では和食に欠かせない調味料となったみりんは、
甘みある飲みやすさが、女性やお酒が苦手な人々に人気を博し、
アルコール飲料として親しまれていたと言います。
歴史を紐解くと、戦国時代の記録に見られるほど、
その原点は古いものです。

上州 赤城山の一部が洪水で流れついたという民話からその名のついた流山一帯は、江戸川という豊富な水源と、清らかな水で育まれた米の産地。
紋次郎は、当時発布された「勝手造り令」で、
上方から大量の下り酒が江戸に流れ込み、
流山など江戸近郊の酒造業が衰微していく時世を憂います。
そこで、先代が醸造を試みていたみりんに目をつけます。

当時のみりんは、色の濃い上方のみりんが主流でしたが、
紋次郎は試行錯誤の末、白みりんの開発に成功します。
清らかな透き通った色味ながら、甘みと旨み、風味が凝縮され、
濃厚かつ上品な味わい深さがあったといいます。
その美しさと味わいが江戸の人々に愛されました。

透き通ったみりんの秘訣は、濾過の工程にあります。
『千葉県東葛飾郡誌』によると、
相模屋では「最良の羽二重」を用いてもろみを濾していました。
羽二重とは、縒りのない経糸と緯糸を使った平織の絹織物のこと。
きめ細やかに織られ、丁寧に縁取りされたゆがみのない絹羽二重が
みりんの細かい澱をきれいに濾しとってくれたのです。

上方のみりんに比べ、透き通った色味の白みりんは物珍しさもあってか、
市井に行き渡るには発売から10年以上の月日が必要でした。
紋次郎は白みりんを背に、自らの足で諸方を巡ったと伝えられています。
その甲斐あって、徐々に人気に火がつきはじめ、
いつしか「あずま名物」と呼ばれるまでになりました。

白みりんの故郷は、江戸川という水運に恵まれた流山。
地の利を生かして江戸の酒問屋へと運ばれた白みりんは、
江戸に受け入れてからは瞬く間に普及していったと言います。
一点の曇りもない紋次郎の志を表すかのごとく、
清く澄んだ白みりんは、こうして実を結んだのです。

追い風は、みりんが飲料から調味料へと移行した時期と
白みりんの誕生が重なったこと。
当時の料理本、『料理早指南』や『素人包丁』などには
煮物、焼き物、和え物、菓子などで、
みりんを調味料として使用する記載が見られます。

江戸は人口100万人を超えたといわれる世界最大の都市であり、
江戸赴任の単身男性が多く、外食文化が花咲いた都。
同じ頃、関東のこいくちしょうゆが上方のしょうゆを出荷量で上回り、
うなぎやそばつゆなど、今も残る江戸前の味付けが確立。
「しょうゆの野田、みりんの流山」は江戸の台所を支える存在になります。

まちの評判から宮中に献上する機会に恵まれた紋次郎。
「関東の 誉れはこれぞ一力で 上なきみりん 醸すさがみや」
と、その喜びを歌に表します。
「一力」を「万」の字に、「上なき」の「上」をとって「万上」。
これが「万上」の由来となりました。

「画狂老人卍」と絵師名が記された摺物があります。
この絵師名は、葛飾北斎が晩年に用いた画号で、
摺物は、北斎が晩年に手がけたと思われる作品です。
遠景に筑波の山。手前には「万上」印の樽と、新年の凧。
「万上」が広く知られた当時を偲ばせるようです。

二代目亡きあとも、相模屋当主は家業に励み、名声は高まります。
1873年(明治6年)には、ウィーン万国博覧会で有功賞牌を授賞。
さらに、1877年(明治10年)に、宮内省御用達を拝命しました。
現代に至っても”上なき”の志は脈々と継承され、
ここ、流山では良質な白みりんがつくられ続けています。