トップ > 館内展示 > 過去の展示一覧 > KIKKOMANのおいしい挑戦~アメリカ進出50周年~

 

過去の展示

KIKKOMANのおいしい挑戦~アメリカ進出50周年~

アメリカ進出50周年-その足跡の検証
戦後のしょうゆ事情とアメリカへの輸出再開

国内の醸造しょうゆの危機とアップルトン女史の活躍

第二次大戦終結後、日本は食糧不足で、しょうゆの原料となる小麦や大豆などは大幅に不足した状況にありました。化学的に製造したアミノ酸液で醸造しょうゆを増量した「アミノ酸液混合しょうゆ」や食塩水をしょうゆの搾り粕で着色した「代用しょうゆ」なども出回っていたのです。
1948年(昭和23年)になって調味料の原料として大豆ミールが放出されることが決まり、醸造しょうゆ業界とアミノ酸業界へどのように配分するかが問題となりました。当初、GHQ(連合国軍総司令部)経済科学局では原料の歩留まりと製造期間を重視し「醸造しょうゆ業界2、アミノ酸業界8」の比率で原料を配分することを内定しました。

しかし、当時GHQの担当官だったアップルトン女史は、当社が「新式2号醤油製造法」を開発したことを聞き、「消費者の希望を調査した上で配分の決定をし直そう」という上申書を局長のマーカット少将に提出しました。上申書が採用されて調査を行なったところ、消費者の8割が醸造しょうゆを支持。この結果をもとに両業界の話し合いを設け、「醸造しょうゆ業界7、アミノ酸業界3」の配分比率が決まりました。醸造しょうゆは存続の危機を免れたのです。
「私がおいしいと思うのですもの、アメリカはもちろんヨーロッパの主婦だって、使ってみればしょうゆの素晴らしさがわかると思うの」。アップルトン女史は醸造しょうゆのよき理解者で、自らもしょうゆでステーキソースをつくり、お客にふるまうほどの愛用者だったのです。
露天の雑炊食堂(『日本生活変遷史』より)

露天の雑炊食堂(『日本生活変遷史』より)

「新式2号発表会」当日、野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

「新式2号発表会」当日、野田醤油の工場を訪れたアップルトン女史。右端は日本醤油協会会長・正田文右衛門氏(1948年8月)

危機を救った醸造技術の開発と特許の公開

アップルトン女史が注目した当社の「新式2号醤油製造法」は、大豆の窒素利用率を大幅に上げ、醸造期間も短縮し、しかも良質のしょうゆの製造を可能にする画期的な技術でした。
1948年(昭和23年)8月に当社は特許の無償公開に踏み切り、広く業界で使用されるようになったのです。
輸出再開当時の壜用ラベル(1Pint 50oz)

輸出再開当時の壜用ラベル(1Pint 50oz)

1949年 しょうゆの輸出をいよいよ再開

戦後、当社のしょうゆの輸出再開が実現したのは1949年(昭和24年)のこと。アメリカ、カナダから輸入し農林省から割り当てられた原材料を使い、輸出用しょうゆとして質の高い規格品を造ることになり、輸出価格はGHQの意向を受けた農林省・通産省と協議し、1リットルあたり100円に決まりました。

アメリカ市場の構造変化 日系人から非アジア系アメリカ人へ

戦後の1949年(昭和24年)から54年(昭和29年)までの6年間で当社は7千300キロリットルのしょうゆを輸出しましたが、アメリカ向けは5千500キロリットルでそのうちサンフランシスコ、ロサンゼルス、ハワイ向けが83.6%に及びました。日系人の需要に支えられたのは言うまでもありません。しかし、戦前の最盛期1939年(昭和14年)には年間で3千600キロリットルを輸出していたのですから、この数字では期待はずれと言わざるをえませんでした。
その原因は、戦争による7年間の空白の間に、アメリカ市場では構造の変化が生じていたのです。日系人世帯は1世から2世、3世へ世代交代がすすみ、しかも現地産の「アミノ酸液調味料」が「しょうゆ」として日系人家庭に浸透してしまっていたのでした。

その一方で、占領期間の7年間に日本に滞在したアメリカ人は軍人、民間人を合わせて約300万人にのぼりました。彼らは日本食、とくにしょうゆを使った食事を好み、日本文化や芸術にも接し、知識欲旺盛な人々の中には、日本人女性と結ばれた人々もいました。夫とともにアメリカに渡った日本人女性は10万人とも推定されています。「今後、アメリカでしょうゆを使用する家庭が増える」という見通しは、アップルトン女史のような在日アメリカ人の食生活からも推測され、そうした人々を通じて非アジア系のアメリカ人への消費拡大が期待されたのです。
戦後10万人を超える日本女性が戦争花嫁となり海外に嫁いで行った。「進駐軍将兵の花嫁講習会」。1951年3月頃の写真。写真提供:共同通信社

戦後10万人を超える日本女性が戦争花嫁となり海外に嫁いで行った。「進駐軍将兵の花嫁講習会」。1951年3月頃の写真。写真提供:共同通信社
戦後のしょうゆ事情とアメリカへの輸出再開