キッコーマン食文化講座

みりんと流山 ~みりんが流山にもたらしたもの~

日程 2011年1月17日
場所 野田本社
講師 川根正教先生
主催 キッコーマン国際食文化研究センター

流山は、みりん醸造と舟運で、幕末から明治にかけて大きく発展しました。第4回では、幕末から明治・大正までのみりん醸造の推移を追っていきます。また、俳人小林一茶は秋元双樹のもとをたびたび訪れていますが、流山市指定史跡である「小林一茶寄寓の地」を整備して開館した「一茶双樹記念館」を紹介します。

前回は、酒造業の流れや、清宮秀堅が弘化2(1845)年に著した『下総国旧事考』の「近来出精醇九醞酒、為三都冠」という記述などに基づき、流山におけるみりん醸造の第一の画期は文化・文政年間にあるとしました。

みりんの醸造量が記録された天保4(1834)年の文書によれば、堀切家・秋元家ともに天保初年には、すでに酒造中心からみりん醸造中心へと移行しています。幕末から明治10年代は社会の混乱に伴い、醸造量は減少したと考えられますが、明治20年代に入ってからは、吉田東伍の『大日本地名辞書』に「流山、野田は近世醤油、味醂の生産に名あり。流山味醂は安永年中に起り、江戸に販りて大に声価を博したるより、需用年を逐ひて増加し、今や二千石の歳額に及べりとぞ」とあるとおり、その生産量が急増します。

こうしたことから、みりん醸造の第二の画期は明治20年代から大正時代にあると考えることができます。明治20・30年代、大正時代の小中学校の地理教科書にも流山のみりんは記載され、全国的にその名が知られていたことが明らかです。この頃の流山のみりん醸造家は、「万上」堀切紋次郎、「天晴」秋元三左衛門、「麗泉」寺田豊松、同じく「麗泉」寺田平右衛門、「白雪」永瀬葛太郎の5人がいたことになります。

小林一茶と5代秋元三左衛門(双樹)とは交流があり、享和3(1803)年頃から50回以上、一茶は双樹のもとを訪れています。流山市では平成2年に、旧秋元家のみりん工場に隣接した地を「小林一茶寄寓の地」として史跡に指定、平成7年には新座敷と呼ばれる安政年間の数奇屋風建物を解体・復元し、商家表構や茶室、枯山水の庭園を整備して「一茶双樹記念館」として開館しました。

双樹は宝暦7(1757)年生まれ、一茶は宝暦13(1763)年生まれですので、双樹が一茶より6歳年長になります。一茶の俳句集である『文化句帖』の文化元(1804)年八月の項に「廿七日 村雨 流山ニ入、廿八日 雨」と記され、続いて「越後節蔵に聞こへて秋の雨」の句が詠まれます。双樹の家に宿泊していると醸造蔵から越後節が聞こえ、故郷を懐かしんで詠んだ句ですが、この越後節は杜氏や蔵人による酒造りの唄と考えられます。

当時の秋元家は未だ酒造業が中心で、みりん醸造は少し後ではないかという傍証になる句ではないでしょうか。双樹は文化9(1812)年に亡くなり、一茶は双樹の葬儀に参列します。