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過去の展示

江戸時代のしょうゆ輸出について


コンプラ醤油瓶の輸送
当時、しょうゆの商品価値を下げずに、赤道直下のバタビアを経て喜望峰を回り、遠くオランダまで運ぶということは、大変な困難があったと思われます。いまでこそ冷蔵設備や真空パックなどの技術が発達していますが、そうした設備や技術の無かった時代、オランダ人たちは、どのような工夫をしていたのでしょう。
1775年(安永4年)から1年あまり長崎商館の医務職員として勤務したスウェーデンの医学者・植物学者ツンベリーの旅行記『ツンベルク日本紀行』には、次のように記されています。

「(日本人は)非常に上質の醤油を作る。これはシナ(中国)の醤油に比して遥かに上質である。多量の醤油がバタビア、印度、及び欧羅巴に運ばれる。(中略)和蘭人は醤油に暑気の影響をうけしめず、又その醗酵を防ぐ確かな方法を発見した。和蘭人はこれを鉄の釜で煮沸して壜詰とし、その栓に瀝青を塗る」
(山田珠樹訳『ツンベルク日本紀行』、カッコ内およびルビは引用者)

つまり、しょうゆをまず煮沸し、それを瓶(「ケルデル瓶」または「コンプラ瓶」)に詰め、栓をして、そこに瀝青(コールタール)を塗ることにより、しょうゆの劣化を防いだということです。
「Panel-4」に示した、長崎→バタビア→オランダというコースで輸出されたしょうゆの記録は、樽数で記録されていますが、長崎商館から送る際に、瓶に詰め替えて送りだしたことになります。
1790年(寛政2年)に初めて550本の「コンプラ瓶」を使っていますが、この瓶に詰めたしょうゆを「浄化醤油」と記録しています。この「浄化醤油」というのは、煮沸したしょうゆを瓶詰にした後、瓶の栓に瀝青を塗ったもの考えられます。

オランダ東インド会社の貿易記録 オランダ東インド会社の貿易記録(オランダ・ハーグ国立中央文書館蔵)


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