料理のことわざ た行

「た」

大倉の梯米(だいくらのはしごまい)

大きな倉庫に小粒の米が入っていること。
「大海の一滴」と同じ意。

醍醐味(だいごみ)

一般には味のすばらしさを表す言葉だが、芸術などの趣あることにも用いる。
醍醐は、牛馬羊などの乳製品の精製加工品のことで、その味は甘味があり、栄養は豊かである。現在のチーズと思えばいい。転じて、仏法の妙趣をいった。
出典は、「涅槃経」(ねはんきょう)で、「たとえば牛から乳を出し乳から酪を出し、酪から生酥(せいそ)を出し、生酥から熟酥(じゅくそ)を出し、熟酥から醍醐味を出す。最上の仏もまた、これと同じである」と論じている。
さらに「これを飲用したものは、すべての病気が皆、なくなる」と付言している。

大道湯漬(だいどうゆづけ)

客が帰ろうとすると、にわかに愛きょうよく、湯漬でも召上れなど、空世辞をいうこと。
「なんなら茶漬」も同意。

 

高い所に上がらなければ柿は食えない

危険を冒さないと、大きな利益は得られない。
「虎穴に入らずんば、虎児を得ず」というのと同じ意味である。

耕さずして獲(え)んとす

努力しないで、幸福を得んとすることをいう。
出典は「易経」で「不耕而穫」とある。

たくわんの重石(おもし)に茶袋

たくわんを漬けるには、上からしっかりと重石をしなければうまく漬からない。その重石に軽い茶袋を使っても全然効果がない。転じて、少しも効力のないことをいう。

たこからげ

4、5月頃の南風のこと。
着物のすそを、まくりあげることもいう。

ただなりとも食うべき餅に飴

よいことが重なってくること。

田作りも魚の中

(ひしこ)の乾したもの

関東では田作りのことをごまめという。
田植に際して、豊年を祈って祭りをするが、その時に用いるのが田作りである。小さくても尾頭つきの魚を祝魚に用いる意である。正月の祝膳にも、この祝魚を利用するのは、やはり豊年を期待する意を含んでいる。
田作りそのものは、上級魚ではないから、軽視することが多いのでそれに反論して立派な魚じゃないか、と弁護している言葉である。
田作りを田畑の肥料とし、それを用いて豊年をことほぐという解釈はあたらない。

蓼(たで)食う虫もすきずき

蓼には、赤蓼、青蓼の2種があり、どちらも独特のにおいと苦味、辛味がある。
一般には、あんな蓼のようなものを好むとは、よほど変り者であると、軽蔑の意を含んでいる。しかし、そのような全面否定的なものではなくて、むしろ、蓼につく虫にしても蓼のどの部分が味がいいか知っていてそこだけ選んで食べるのである。それが人間に適用された場合、ある人が風采はあがらないが、唄がうまいとか、実直であるとか、頭がいいとか、何か誰でもいいものを少しは持っているもの。それに感動して好きになったという解釈もできる。

棚から牡丹餠

偶然の幸運。「開いた口に牡丹餅」と同じ意である。

他人の飯には骨がある

人の家に寄食したり、住込んだりするといろいろつらいことがある。
「骨がある」のかわりに「刺(とげ)がある」といういい方もある。

樽に充たざる酒は音がする

内容のない人間はとかく、高言を吐いたり、くだらぬ自慢をするものである。

団子はくしに刺した方がいい

団子は、くしに刺した方が食べいいが、それと同様、何事によらず便宜な措置をとった方がいい。

 

団子も餠のつき合い

善良なグループによくない者がまじっていることをいう。

「ち」

池魚の殃(わざわい)

昔、中国の楚の時代に城門が失火で焼けたとき、消火のために池の水を使ったので、その池の中の魚は死んでしまったという。
この故事から、そば杖を食ったり、思わぬ災難をうけることを「池魚の殃」という。
出典は、「杜弼、梁を檄する文」の中に「楚の国の者が猿を逃して、その禍が林の木にまで及び、城門は火を出して、その禍は池の魚にまで及んだ」とある。

馳走終らば油断するな

何かの目的で人がごちそうしてくれるときには、その酒宴が終ったところでさて、とか、時に、とかいって話しかけてくるものである。
だから、ごちそうが終ったら気をひきしめているべきだ、ということ。

茶に酔うたよう

知っていることも知らぬ真似をすること。

茶の子

朝、はじめてとる小食をいう。ごく軽く食べるのであるが、転じて容易なこと、簡単なことを「お茶の子」という。
関東の言葉で「そんなことはお茶の子さいさい」などという。

茶腹も一とき

これも現在よく用いている。普通の食事をしないで、茶湯を一杯飲んでもしばらく空腹をしのげる意。

朝三暮四(ちょうさんぼし)

この言葉には、いろいろの意義がある。
(1)だます、詐術にかけるなどの意味。
(2)どちらにしても、結局おなじことをとやかくいうこと。
(3)生計、くらしのやり方。
このうち(2)がよく使われる。
出典は「列子黄帝篇・荘子斉物論篇」
宋の時代、狙公という人が、猿を好きでたくさん飼っていた。ある日、猿に「お前達に毎日朝三個、夕方四個の木の実を与えているが、それについては何かいいたいことがあるか」というと、現在のやり方は不満だといった。それで「朝四夕三ではどうか」というとそれならいいと喜んだ。
こんなわけで、どちらも同じことなのに、文句をいうのを朝三暮四というようになった。

長者の脛(はぎ)にみそを塗る

あり余る処に、さらに、物を加えること。

提灯で餠をつく

提灯で餠をつこうとしてもつけるものではない。
いつまでたっても、物事のらちがあかないたとえに使う。

「つ」

朔日(ついたち)ごとに餅食えぬ

好事ばかり続くものではない。

ついた餅より心もち

心のいいことは何よりもいい。

搗臼(つきうす)で茶漬食う

小量のものに大きな器を使うこと。

月とすっぽん

月もすっぽんも形が丸い点では似ているが本質的にはまるで違う。転じて、二つのものを比べて著しく格差があるときに使う。

 

月夜に釜を抜かれる

一説で釜ではなく、蒲(釜)となっているが油断して失敗することや、鋭いことをいう。
また、関東では以前に妻をかまといったので、この諺も愚鈍な夫はだまされて、妻を人にとられてしまうことがあるといった意味にもとる場合もある。

月夜に米の飯

月夜はいいものだ。一年中、月夜で、その上、米の飯を常食にしていればこんなにいいことはない。
蜀山人の狂歌に「世の中は、いつも月夜に米の飯、さてまた申し金のほしさよ」とある。

つまみぐい

膳の上の残り物、戸棚に鉢を入れてしまってある料理などを手につまんでその場で食べることをいう。

つまりざかな

つまりは末のこと。一定のさかなが終わってしまい、食べものがもっと欲しいとき、ありあわせの物などで間に合わすこと。むろん初めの物にくらべて、程度はぐんとおちる。
転じて、百計つきはててやむを得ず下策のものを選ぶことをいう。

爪のみ

酒をのみつくしてしまい、親指の先の爪を酒に濡らして、もう酒が残っていないと示すことをいう。

釣り落とした魚

魚釣りをしていて、獲物を水ぎわまでひきよせながら逃がしてしまうと、実際の大きさよりももっと大きな魚を逃がした気がする。
また、水中の魚は光線などによって大きくみえたりするが、どっちにしても、逃がした魚は大きくみえるものである。転じて事業などを中途で中止したり、手をひいたりして、大きな損をしたように思われること。

鶴九睾(きゅうこう)に鳴き、声天に聞ゆ

昔、鳥肉を食べるのに野鳥を上位に置き、鶏などのように飼育されているものは下等品とされていた。鶴は野鳥の中でも逸品とされ、式庖丁を行う場合でも、鶴を使う場合には鶴の庖丁といって、天皇の前だけでしか行わなかった。
九睾とは、こちらから数えて九番目の池をいい、そんな遠いところで鳴いても鶴の声は響いて遠くまで聞こえる。転じて、人が自分で売名しようとしなくても自然にその名が高くなる意に用いる。

鶴の脛(はぎ)も切るべからず

鶴の足が長いのは渉禽類といって、海岸沢地を歩くのに必要なためである。それを長すぎるから少し切ったほうがいい、などと他の者がとやかゆいうものではない。
転じて物事に関係ない者は自分勝手な批判をするものではない。
出典は「荘子」の栂篇。
「鴨の脚が短いからといって、継ぎ足をしたら、鴨は迷惑するし、鶴の足が長いといっても、それを切ってしまっては鶴は悲しむであろう」と出ている。

鶴の一声

鶴の一声は力強く響き、他鳥を威圧する。
会議などで話のまとまりがつかないときに、権力者がこうすればいいという一声で決定することがある。それを鶴の一声で決った、などという。鶴は首が長く、その声はかなり遠くまで響くのである。

 

「て」

亭主三杯客一杯

主人は客を招いたら、サービスしなければならないから、どうしても客より多く飲むことになる意。
「亭主八杯」といういい方もある。

泥酔

酒に酔いすぎたことをいう。
泥虫という水中に住む虫は、水から離れると土塊のようになってしまう。
その泥虫に、酒に酔い正体のなくなった者の姿が似ていることから、この言葉ができたといわれている。

 

手塩にかける

自分でめんどうをみたり、手がけたりして丹精すること。
手塩は、食膳にのせてある小皿にもった塩のこと。
昔は、これで自分の好みの味かげんをしたので、それから転じたもの。

適度に飲食して医者を無視せよ
Feed by measure and defy the physician.

腹八分目に医者いらずの言葉もある。
ケリーの「ことわざ集」には「適度に暮らして医者を無視せよ。適度の食事は健康によろしい」とある。どこの国も考え方、いい方は大同小異である。

手酌五合たぼ一升

どんな酒好きの人でも、独酌でちびりちびり飲んでいるのでは、量はそう多くいくものではない。
しかし独酌で五合しか飲めない人でも、美人の酌ともなるとその二倍の一升は飲めるというのである。
たぼは日本髪の一つの結い方だが、転じて女性を指す言葉としても使われている。

手酌は恥のもと

独酌はいかにも貧乏くさいというので人にみせるのは恥ずかしいこととなっていた。
「壇の浦かぶと軍記」に「すぐに私お頂戴、手酌は恥の本云々」とある。
「手酌貧乏」という言葉もあるが、意味はほぼ同じものとみてよい。
要するに、酒は人に酌をしてもらって飲むものであり、手酌はいかにもみすぼらしい、というのが古い考え方であった。

手作りのみそは塩からい

何事も自分がしたことはいいことだと考える。
「手前みそで塩からい」というのも同じ意味。
また、手前みそばかり並べている、などといういい方もある。中国の「老子」、その他にも出ている古い言葉である。

 

手みそ酒盛り

何の風情もなく、黙々とただ酒ばかり飲むことをいう。

手盛り八杯

人が給仕するのを待たずに、自分で盛って大いに食べること。

手盛りを食う

人にひっかけられること。いっぱいくうこと。

「と」

豆腐で足つく

思いもよらないことで失敗すること。

豆腐で歯をいためる

あり得ないことのたとえ。

豆腐に鎹(かすがい)

「ぬかに釘」というのと同じで、少しも手ごたえや効きめのないこと。

登龍門

中国黄河の上流に登龍門の名のある場所がある。この付近は急流で、多くの魚はここから上流に行けないがなかにはこの難関を突破してなおも上流に進んでいく魚がある。これは龍に変じて天に上るという出世ぶりなので、ここを登龍門という。転じて、人が難関をパスして出世するのを登龍門を越えたなどという。

 

徳利に口あり 鍋に耳あり

「壁に耳あり云々」と同じ意味。
うっかりしゃべると禍を招くから注意せよ、ということ。

徳利にみそを詰める

徳利にみそは詰めにくい。
そこで、しにくいこと、できがたいことの、たとえに使う。

どじょうの地団太(じだんた)

どんなにあせっても、効のないことをいう。

とどのつまり

ぼらは、幼魚から育つにつれて名前が変るので出世魚という。(おぼこ、くちめ、すばしり、いな、ぼらなどの名称は、地方によっても違っている)
ぼらが、これ以上大きくならないというまで育ったものをとどといい、とどのつまりとは、いよいよのはて終局のことをいう。

土用丑(どよううし)

土用の丑の日にうなぎのかば焼きを食べる風習が今でも残っている。
はじまりは約150年前。これを始めたのは学者であり、智者であった平賀源内か、狂歌で有名な太田蜀山人であるということになっている。しかし、このご両人、いたって筆まめな方だが、著書の中に土用丑のことなど全然書かれていないのでおそらく虚説であろうと思われる。
「万葉集」のなかに大伴家持が石麿という人がやせているのを見て「石麿に我申す、夏やせによしというものぞ、武奈伎(むなぎ)取りめせ」と詠んでいる。
江戸時代のうなぎ屋がこの歌からヒントを得て土用丑の日を年中行事として始めたと思われる。
現在も、土用丑の日の前後は、うなぎの需要があいかわらず多い。

鳥の唄よりパン
Bread is better than the songs of birds.

いくら美しい鳥の声をきいても空腹ではしかたがない。
「言葉でほめられるよりはプディングのほうがいい」という諺がヨーロッパにある。
日本でいう花より団子とほぼ同じ意味であろう。

鳥を食うとも どりを食うな

鳥は食べても、その肺は食べないほうがよい。
どりとは鳥の肺のことをいう。同様の意で「かにを食っても、がにを食うな」という。
がにはかにのえらである。魚類の場合でも、ごく小さい魚は一尾ごと食べられるが、
たいていはえらを食用にしない。
特にえらも美味なものの一つとして用いるのは、あんこうである。
あんこうの七つ道具と称するものの一つにえらが入っているくらいである。

鳶(とんび)に油揚をさらわれる

空高く大空に円を描いてゆうゆうと飛んでいるとんびは、視力と嗅覚が鋭敏である。
上空から地上を見ていて、獲物をみつけると急降下して捕らえてしまう。
転じて、人がうっかりしていて折角手に入れた物や利権を他人からうばわれてしまうこと。