料理のことわざ わ行

「わ」

我が口に甘ければ人の口にも甘し

自分の口に甘いものは、人の口にも甘いのだから、人に施しをする心をもて、ということ。

我が物食えばかまど将軍

他の恩恵をこうむっていない意。
かまどは昔から飯を炊いたり、煮物を作ったりするのに用いたが、燃料に薪などを使う不便さもあって、都会では全然見られなくなった。

我が家のかまど料簡(りょうけん)

自分の家の経済に注意せよ、の意。

我が家の米の飯より隣の麦の飯

とかく他人のものはよく見えるもの。

湧く泉にも水がれあり

どんなに湧いている泉でも、つきることがある。いかに多くのものをもっていてもなくなることがある。

わさびと浄瑠璃(じょうるり)は泣いてほめる

わさびは辛いので涙が出るし、浄瑠璃は聞いて人情の機微にふれると泣くもの。
浄瑠璃は平曲、謡曲を主にした新音曲語り物であり、なかで傑作といわれる「浄瑠璃姫物語」が人気を博したので浄瑠璃がこの種の語り物の名称となった。
また元禄時代には、竹本義太夫が、諸音曲を集大成して義太夫節を完成。浄瑠璃は義太夫節の異称となった。

轍(わだち)のふな

切迫した困難な状況をいう。
出典は「荘子外物篇」。わだち(道路についた車輛の跡)の水たまりにいたふなが、水がかれてしまいそうなので、通りがかった人に水を求めた。すると、その人は、近日、西江の近くに旅行するから、その時に川の水を汲んで迎えにこさせようなどと悠長な答をしたという故事による。

渡りひよどりと戻りつぐみ

ひよどりがやって来るかと思うと、つぐみはもどって行く。このように、世の中には、さまざまの動きがあるということ。

わった茶碗をついで見る

わった茶碗のかけらをついでみてもとうてい元通りにはならない。不可能なことのたとえ。
「壇の浦かぶと軍記」に「一生の不調法悔しいことをしたなあと、わった茶碗をついで見るに、等しき愚痴に立ち帰り」云々……。

わにの口を逃れる

危険な所から逃げるの意。
「義経記七」に「わにの口をのがれたる心地して、足早に通られける」とある。その他、「曽我物語」にも同じ意味で用いている。

わにの一口

わにが大きな口を開いてパクリ、と食べるのと同じで、大きな口で一口に食べること。
あるいは、一挙に倒されること。
ここでいう「わに」は「さめ」のこと。「鬼の一口」ともいう。

 

われ茶碗

欠点の目立っている人をいう。

笑い上戸泣き上戸

酒が入るといろいろの酔い方が見られる。怒り上戸などもある。

藁(わら)千本ありとも柱にはならぬ

無能な者たちが、いくらたくさんいても、物の役には立たない。

藁をたく

無駄口をたたくことをいう。
「わらをたかる」と受動的に用いると人から罵倒される意になる。

割木(われぎ)に飯粒で木飯(きまま)

木飯=気まま。気ままであるという地口。

悪いものの煮肥え

「まずいものの煮え肥リ」と同じで水分を含んで大きくみえるが、味はよくない意。

われから食わぬ上人なし

「われから」は「我から」ではなく割殻である。甲殻綱端脚目われから科に属する節足動物の一種で乾くと殻が破れるのでこの名がある。
海藻の間に住み、身体は細長く胸部が長く、その代わりに腹はほとんどないように見える小さな動物。海藻などに付着しているから知らずに食べてしまうことがある。従って、徳高い上人でも精進料理のつもりで海藻を摂ると、知らない間に生物を食べることになる。
転じて、物事には絶対ということが至って少ないこと。
また「われから禍をまねかざるはなし」の意にも用いる。

われ鍋にとじぶた

良くないもの同志、また、欠点だらけの者がよくマッチしていること。夫婦などで、どっちもどっちという欠点のあるものが仲良くしていることなどもいう。
「われ鍋に欠けぶた」「われ罐子(かんす)に木ぶた」というのもある。

我をして身後の名あらしむるよりは即時一杯の酒に如(し)かず

自分の名が後世に残るよりは、今、一杯の酒を楽しんだ方がいい。
「晋書 張翰伝」に「使我身後、不如即時一杯酒」とある。

椀作りの欠け腕

椀を作るのを業とするものなら、立派な椀を自分がまっ先に使いそうなものだが、欠けたのや、古ぼけたものを自家用にしている。
「紺屋の白ばかま」も同じ。

椀より正味

椀がどんなに立派でも、中身の料理が悪くては感心できない。
大正の中頃まで使っていた言葉に「蒔絵の重箱にやきいもを入れたよう」というのがあり、それと同意。