料理のことわざ さ行

「さ」

桜鯛 桜うぐい

桜の花の咲く頃には、味のよくなる魚がいろいろあるが、なかでもこの二種の魚の味はいい。

雑魚の魚まじり

雑魚は下級の小魚のこと。地引網を引上げたときには、網の中にいろいろな種類のものがまじっている。高級魚の鯛、すずきなどもみられる。いわゆる「雑魚の魚まじり」である。転じて、能力を持った人がつまらぬ雑輩とまじっていることをいう。また、碁の強い人達の集まりに未熟者がまじっていることもいう。

砂糖買いに茶を頼むな

砂糖を買いに行く人に、ついでに茶を買ってきてくれと頼むものではない。砂糖は湿気があるし、茶は湿気を著しく嫌うから、一緒にしてはいけない。

鯖の生き腐り

魚の中でも、鯖はとても傷みやすい。極端にいうと、生きているときから腐るということ。

猿の柿笑い

猿が自分の顔の赤いのをそっちのけにして柿の赤いのを笑うように、自己の醜態をかえりみず、人の悪口をいうこと。

 

三月肉の味を知らず

三ヵ月も肉の味を忘れるほど、物事に打ち込んでいること。

三月ひらめ犬も食わぬ

旧暦の三月に入ると、ひらめの味はぐっと落ちるので、このようないい方をする。

さんしょうは小粒でぴりりとからい

よく使われることわざ。身体の小さい人が仕事をテキパキやったり、大事業に成功することをいう。

 

三寸まな板を見抜く

三寸といえば約10センチ。10センチもあるまな板を通して、その先が見えるというのは、何事でも目先が効くこと。

さんまが出るとあんまが引込む

旧暦の10月頃のさんまが出回る頃は、気候もよくなり、栄養も行き届くので、健康になってあんまに行かなくなるということ。

「し」

しいら者の先走り

未熟な者ほどしゃしゃり出て、役に立たないのに騒ぎ立てること。「しいら」は「しいな」のこと。実が完全に入っていない米麦をいう。「しいな者の先走り」ともいう。

塩売りも手をなめる

どんな細かいことも、おろそかにしない。いたってけちん坊なこと。

塩からを食おうとて水をのむ

塩からを食べれば、のどがかわく。前もって、水を飲むというのは手まわしがいいが、順序が逆で役立たない。

鹿の角を蜂がさしたる如し

なんにも手ごたえのないこと。また、全然感じないこと。

蜆貝で海を量る

しじみの貝がらで、海の水を量っても量りきれるものではない。また、スケールの大きい人物でなければできぬことを、小さい人物がいくらやってもできるものではないこと。

七五三料理も大根が出ねば調わず

七五三本膳というように、本格的な立派な日本料理にも大根が用いられないと完全ではない。大根が、重要な材料であることを強調する言葉。転じて、会合などにその人が出ないと座がまとまらないような人物のことをいう。

芝居 こんにゃく いも かぼちゃ

江戸時代から明治時代に用いられた言葉。女性が好むものを並べてある。

しゃこで鯛を釣る

つまらぬ元手で、すばらしくいいものを手に入れること。

重箱でみそをするよう

物事に大まかなこと。「重箱の隅を楊枝でほじくる」というのがある。これは、物事に対して細かすぎることをいう。

食前方丈一飽に過ぎず

自分の目の前の食卓は、3メートル平方の大きなもの。その上に、ぎっしりと料理がのっているが、みな食べ切れる量ではない。少し食べれば飽きてしまう。転じて、物事に対する欲望は、適当にすべきだ、ということ。

汁を吸うても同罪

少しでも悪事に関係すれば、その罪は同じ。

新米にとろろ汁

うまいもののたとえ。新米の飯にとろろ汁をかけて食べれば確かにうまい。

 

「す」

酸いも甘いも皆承知

世の中の常識、人情の機微などをよく承知している意。「酸いも辛いも」ともいう。「堀川狂歌集」に「詩に歌によまれし花の塩梅は酸いも甘いも知る人ぞ知る」。

酢がもどる

年老いた人の思慮分別が明らかでなくなったこと。

好きは身を通す からしは鼻を通す

好きなことならば身を苦しめても、やり通すことができるものだ。 からし云々は対句である。

空腹(すきばら)に茶漬

空腹は、どんなものでも美味にし、茶漬でも、たいへんなごちそうだ。

すくち空腹(すきばら)

すくち(素口)とは腹のへったこと。ぼらという魚の腹に子のないのもすくちという。「すくち空腹」と二字重ねたのは、著しく空腹の意。

すしを押しつけたよう

押ずしを作るには、圧力を加える。転じて、人が密集していること。

雀の酒盃

そうぞうしい小宴をいう。

 

雀の巣も食に溜る

すずめが巣を作るために、わずかばかりの材料を丹念に集めてくるが、休まずにやっているとかなりの分量がたまる。人もお金をいくらかずつでも、休まずにためると驚くほどの貯蓄ができる。

酢でさいなむ

ひどくこきおろすこと。

酢でもこんにゃくでも

どうにも手におえないこと。人と交渉するとき、相手がいろいろ理屈をつけて、なかなか話がまとまらないことを「酢のこんにゃくのといって」云々という。「四の五」の言葉のしゃれであろう。

酢でもしょうゆでも 食えぬものは食えぬ

食べられないものは、酢やしょうゆで味付けしても食べられない。転じて嫌いなものは誰も同じということ。

酢といえば大根

大根には酢がよく合う。 付き物である意。

酢につけ粉につけ

何かにつけての意。言葉のいいかけである。「長町女腹切」に「これ親仁、そなたはお花が継父、酢につけ粉につけ憎いことわり」。

酢につけ酒しおにつけ

これも同じく、何かにつけての意。「酢につけ、みそにつけ」、「酢にひき、粉にひき」などと同義である。

すりこ木で芋を盛る

不適当なやり方である。これと同じで何事も適切な扱い方をしないと、いくら努力しても効がない。

すりこ木に羽が生えて天上する

昔の漫画に、この通り描いてあるものを見た人もあると思う。真意は、卑賤の者が立身出世することをいう。

すりこ木の穴に糸を通すよう

すりこ木の一端にあいている穴は大きいから糸を通すのが楽である。いたって簡単にできることのたとえ。

すりこ木を食わぬものはなし

昔はみそをよくすったものだ。それにはすりこ木を使うが、毎日いくらかは磨滅していく。それはみそ汁の中に入っていて、早い話が、毎日すりこ木を食べているということ。

すり鉢に灸(きゅう)

少しも痛痒を感じないこと。

 

すり鉢にふたがない

あたり前のことをいう。

酢をかう

ことさらに事をしかけること。刺激する、煽動することにも使う。

寸馬豆人(すんばとうじん)

遠くのものは小さく見えるから、絵を描くときは、そのつもりで描く。画中の鳥や人の大きさの比例をいったもの。
「荊浩、画山水賊」に「およそ山水を描くには、心は筆先にある。一丈の山と一尺の木、遠い人物には目が描いてないし、遠い樹木には枝がない」とある。

「せ」

井魚(せいぎょ)は共に大を語るべからず

浅学狭識の人とは大事を談ずることはできない。

井水(せいすい)大魚なし

井水に大魚なく新林に大木なしという。そこには、大物がいない意。

清水に魚住まず

あまりに清澄な水には魚が住まないと同様に、苛酷で融通のきかないような人とは交友する者が少ない。これに対して、「清濁併せ飲む」という言葉がある。

摂津(せっつ)の雑炊 大和のかゆ

どちらの国の人達もぜいたくはしない。転じて、ぜいたくな暮らしをしないこと。

芹摘(せりつ)む

かなわぬ恋をすること。
昔平安朝の頃、宮中の庭掃除の卑しい男が、突風で吹き上げられた御簾(みす)の中で后(きさき)が芹を召上がっている姿を見、それ以来、后に恋心を抱き、毎日、芹を摘んでは御殿の縁側に置き、それを取りに姿をお現わしになるのを期待したが、その望みが果されないうちに、この男は死んでしまった。家族は遺言によりその墓に芹を供えてやった。
これを献芹の故事という。
「枕草子」にも「我が身に芹つみしなど、おぼゆるこそなけれ」とある。

 

千石万石も米五合

千石万石の収入のある人も、自分で食べるのは一日五合でこと足りる。
同じ意味で「千石万石も飯一杯」というのもある。
欲は適度にすべしの意。
出典は、「老子」。

煎じつめる

物事の結論を得るところまで到達すること。「話が煮つまってきた」などといういい方もある。茶を煎じる、薬を煎じるなどから転じたものである。

膳の上一杯になる

ごちそうがたくさんあること。

前の字のつく国のくらげは食える

豊前、肥前、筑前など国名に「前」の字のつく地方のくらげは食べられる。

 

膳部揃うて箸をとれ

食べる時はがつがつしないで、ゆっくり食べよ、ということ。

煎餅に金づち

容易にくずすことのできる一例。

千松

空腹であること。またその上、食事がなかなかできないこと。歌舞伎の伽羅千代萩(めいぼくせんだいはぎ)の舞台シーンからとったもの。

「そ」

即時一杯の酒

後の大きなことよりは、今の小さいことの方が値打があるという意味。「晋書」の故事による。

束修(そくしゆう)

昔の中学などの校則に「束修」いくらと書いてあった。
現在の入学金である。
「修」は乾肉、「束」はそれを束ねたもの。手軽な手土産として用いられた。それが転じて、軽い手土産や教授を受ける入門料の意に用いられ、ついには、束修何円と金額を表示するようになった。
出典は「述而篇」に「束修をある人から受取ってからは、教えないということはありません」と出ている。

爼上(そじよう)の鯉(魚)

爼(まないた)の上に置かれ、これから料理されようとする鯉は、もう覚悟をしてしまいじっとしている。「爼上の鯉、悪びれず」などともいう。人も覚悟を決めたら、じたばたせず、成行に任せる男らしさをいう。
「爼上の魚」の場合は、絶体絶命でどうにもならない無力の状態をいう。いわば、「鯉」の場合は、自分から覚悟を決めていることをいい、「魚」の場合は、他動的な考え方を含んでいる。なお、爼上の鯉があまり動かないのは鯉が体内酸素のストックがあるので、水から出しても、そう苦しくはないためであろう。

 

反歯(そっぱ)の西瓜食い

反歯の人は、西瓜が食べよいから、たくさん短時間に食べられる。
「反歯に餅見せるな」も同様の意。

その手は桑名の焼蛤

そんな手はくわないということ。
桑名の焼蛤は秀句である。

その葡萄は酸っぱい
The grapes are sour.

イソップ物語の中に、きつねがぶどう棚のぶどうをとろうとしたが、高い処にあるので、どうしても届かなかった。それで、そのぶどうは酸っぱい、といって諦めた。
この話から転じて、負けおしみや、やせ我慢する者の捨てぜりふに使われる。

 

そばにある炒り豆

そばに炒り豆があると思わず手が出てしまい、あるうちはなかなかやめられない。

そばの花見て蜜をとれ

古来、そばの花と蜂蜜とは関連あるものと考えられている。
この文の意は、時機を見てことを行うこと。

そばの花も一盛り

何事にも盛りがあること。
そばの花も一時、盛りがあるように人間にもある。
「鬼も十七」「番茶も出花」と同じ。

空上戸(そらじようご)

いくら酒を飲んでも、顔に出ないことをいう。酒盗人といういい方もある。

空飛ぶ雁を吸物にする

物事のしっかり決まらない前に、前祝いをしたり、仕事をすすめたりすること。「捕らぬ狸の皮算用」と同じ意。

樽爼(そんそ)折衝

談笑の間で有利に話を取決めること。転じて「折衝」だけを、国際間をはじめ、各種の交渉の掛引きのことなどの意に用いるようになった。
文字の上からみると、樽爼は酒樽と肉をのせる机、折衝は敵が突いてくるのをくじくこと。
「出典」は「晏子春秋内篇」である。要約すると「さてさて、酒席で酒樽と肉をのせた机を出さないで、千里先のことを知るとは晏子のことだ。それは、敵の攻撃を居ながら止めるといえる」。