料理のことわざ あ行

「あ」

開いた口に牡丹餅

口を開けていると、牡丹餅がとびこんだ。転じて、予期しない利益がまいこんでくること。
ところで牡丹餅と萩の餅の区別だが同じものを春夏には牡丹餅、秋冬には萩の餅と季節によって呼びわけるという説もある。また地方によっては、餡(あん)のものを牡丹餅、黄粉のものを萩の餅という所もある。
また、お萩、萩の花は女房言葉といって上流婦人の用いた言葉だった。牡丹餅、お萩、どちらの名称にしても作り方は、餅米とうるち米半々の割合で蒸したものをまぜあわせてこね、適当の大きさに丸め、あんまたは黄粉をまぶす。

青菜に塩

新しい青菜に塩をかけると、しぼんでやわらかになる。転じて人が急に何かの原因でしおれることをいう。青菜に塩をかけると、浸透圧の関係で菜類の水分が外に出てしまうので細胞質が縮まり、そのためしおれてしまう。「青菜は男に見せるな」というのは、ゆでたり、煮たりすると分量がぐんとへるので、こういう。
ところで葉菜類をゆでるとき小松菜、ほうれん草などのあくの少ない野菜には1%程度の塩を加えたほうがいいが、あくの強いふき、よもぎ、京菜などは塩を加えない方がいいことになっている。

 

秋なすび嫁に食わすな

秋のなすびは味がいいから嫁に食わすな、というのは姑のいうこと。
可愛い息子が嫁と夫婦仲が良いほど母親は除外されたように感じて、さびしくてしかたがない。つい嫁につらく当たることもある。
一説に「嫁に食わすな」というのは身重な嫁、その他、若い母親によくないので、そういったという善意の解釈もある。しかし現在の一般の使い方では、「嫁に食わすな」というほど秋なすはうまいものであることを強調する言葉として用いられている。

 

朝しょうが夕さんしょう

朝はしょうがを、夕方にはさんしょうをとるようにすれば、健康を維持できるということ。

あつものにこりて膾(なます)を吹く

熱い汁をうっかり口に入れて、こりてしまい、食物は何でも口に入れるとやけどするのではないかと思い、冷たい膾もフウフウ吹いて食べる。転じて、何か失敗すると二度と同じ目に会うまいとして極度に、時にはいらざる警戒をすること。
同じ意味をもつ諺に「黒犬にかまれて、赤犬におじる」「蛇にかまれて、朽ち縄におじる」などがある。

油に水

油と水は、一緒にかきまぜても、混ざらない。
水は油に溶けないし、油は水に溶けないからである。(しかし、博多水炊きの汁の濁っているのは、鶏の脂肪が高熱のために、溶け込んでいるからだと聞くが、それは溶けているのではなくて脂肪の分子が細かくなって混じっているのである。)
あの人と私は水と油などというのは性質や好み、その他相反するものがあって、お互いに仲良くできないことをいう。

 

油を売る

目的地にまっすぐに行かずに、途中で休んだり寄り道したりして、ぶらぶらして行くこと。
江戸時代、油売りの行商は荷物を二つに分け天びん棒でかついでいた。利益をあげるため油売りは日当りのいい所に荷物をしばらく置いてからセールスにむかった。日光を当てると、油の温度は上がり、膨張して容積が大きくなるので計り売りに得策なためである。実際には、日なたで油をあたためるという、売る前の準備行為なのだが、はた目にはぶらぶらしているように見えたらしい。

あまってたらんは餅の粉

餅をつく時は取り粉といって米の粉を用意しておき、それをふりながら餅をこねるが、この取り粉が案外多くいる。したがってあまるつもりで用意しても、たりなくなること。
事業などで、予算以内に収まらない場合にも用いるたとえ。

網にかかった魚

いったん網に入った魚は逃げられない。それと同じで、ある境遇、運命に捕われた人はそれから逃れようとしても逃れられない。

あんこうの待ち食い

あんこうは海底魚で、一ヵ所にじっとしていて、頭の上部に釣ざおのように細い棒状のものを出している。その先に、一見、餌に見える肉片がついているので、付近の魚はそれを餌と思って近寄るとあんこうは大きな口でその魚を呑み込んでしまう。このように、あんこうはじっと他の魚の近づくのを待っていて、これを食べる、まさに待ち食いである。
あんこうの待ち食いこれから転じて、何も自分では貢献することなくごちそうに預かることをいう。また、「あんこうが粕に酔ったよう」というのは、醜い顔をしている人が赤い顔になったのをあざけっていう言葉。

 

「い」

家柄より芋がら

家勢がふるわない旧家だの名家などというものは値打ちがない。だから家柄を自慢するよりは、すぐに食べられる芋がらのほうがいい。門閥を重視した昔でもこういったほどだから、現在、この観念がもっと強いのは当然である。

 

いが栗も内から割れる。

トゲの多い栗は外から実を取り出そうとすると難しいが、時が来ると内から割れて、自然に栗が顔を出す。何事も時期尚早なのに好結果を得ようとしても、なかなか思うようにいかないが、時の到るのを待って行えば目的を達することができる、ということ。

医者とみそは古いほうがいい

医者は年をとれば経験を積むし、また、みそは古くなれば味がなれてきてうまさを増してくる。似たような言い方に「医者と坊主は年寄の方がいい」がある。

 

いつも月夜と米の飯

毎日、米の飯には不自由しないし、夜になると月が出ている。こんなことは何日続いてもあきない。よいことだが、なかなかそううまくはいかない。

一升の餅に五升の取り粉

餅はついてから、板の上にとり、取り粉といって米の粉をつけて、手につかないようにしてから、こねたり丸めたり、伸ばしたりする。このとき割合に多く取り粉を使うが一升の餅に五升の取り粉は多すぎる。
転じて、何事も、主役の物より添え物のほうが材料や費用がかかりすぎるということ。

一滴舌上に通じて大海の塩味を知る

海水を一滴舌の上に置けば塩辛いとわかる。つまり、一部を知れば全体がわかるということ。

いつも柳の下にどじょうはいない

水辺に生える柳の下の水中にたまたまどじょうがいても、数分後にまたいるとは限らない。翌日、翌月、翌年と、月日がたつとなおさらだ。転じて、いいことがあっても、それがいつまでも続くとは限らない、ということ。
しかしなぜ柳の木とどじょうとを結び付けたか、起りは明確ではない。(どじょうの料理、柳川なべに結びつける説があるが歴史的観点から賛同しかねる。)

 

今入(いまいり)三杯

江戸時代からの言葉で、遅れて酒席に来た者は、たてつづけに三杯飲むべし、という意味。今日では、「かけつけ三杯」という方が多い。

芋の煮えたのご存じないか

芋にたとえていっているが、実は、時機が熟しているのを知らないか、の意である。この言葉は江戸の「いろはかるた」の中にも入っている。ここでいう芋とはどんな芋だろうか。芋にはじゃがいも、さつまいも、里芋など多くの種類があるが、ここでは里芋とみればよいだろう。

「う」

飢えは食を選ばず

腹のすいている時はどんな食べ物でも美味に感じられる。類語に「腹のへった時にまずいものはなし」。

雨後の竹の子

一雨降るごとに春の竹の子は急に成長する。物が急に多く増えることを言う。また、数が少なければ値打ちがあるが、そうたくさんになっては価値がさがる意にも用いる。
また、イギリスではこの竹の子にかわって「マッシュルームが増える」という同様の言い伝えがあるそう。

 

牛に馬を乗りかえる

牛は根気はいいが鈍重である。馬は敏速だし、用途は広い。馬から牛に乗りかえるのは、いいものから悪いものにかえる意である。人間は目新しいものを好むので、たとえ馬が劣っていてもそちらを望むことがある。

牛に対し琴を弾ずる

牛に琴を弾いて聞かせても、なんら効力のないこと。「馬の耳に念仏」というのとほぼ同じ意。牛に名曲を聞かせても、少しも関心をもたなかったが、蝿(はえ)や虻(あぶ)の物音には耳を動かしたという話がある。

 

牛に引かれて善光寺まいり

長野の善光寺にまつわる伝説から生まれた諺。その昔、近くに住む老婆がさらしておいた白布を、牛が角に引っかけたまま逃げていった。老婆は息せききって白布を取り戻そうと後を追いかけていくと、牛は善光寺の境内に入ってしまった。おかげで老婆は思わずお詣りしてしまったという。転じて、しばらく訪れない家や初めて行く知人の家などに子供が先にいったり、友人に案内されていく時も牛に引かれて善光寺まいりしてしまいました、などという。

うどの大木

うどは土中に茎を埋めて、もやしにしたものを食用にするが、地上に自由に発育させると、高さ2メートルに及ぶ大きなものになる。しかし、こう大きくなったものは、堅くて味が悪く食用にならない。無用の長物である。人間も同じ、身体ばかり大きくても能力がないなら、ものの役には立たない。

 

うなぎのぼり

川で生まれたうなぎは、生まれ故郷の川にあらゆる障害を乗り越えて帰ってくる。時には、わずかな湿り気を利用して、陸地の上をはっても川の上流に到達しようとする。転じて人がとんとん拍子に出世したり、物価がとめどなく上昇したり気温がぐんぐん上がることなどを形容してうなぎのぼりという。

 

瓜食うたままには居られず

時節違いの衣類を着てはおられぬ。夏がくれば秋の準備をしなければならない。

瓜の皮は金持ちに柿の皮は乞食にむかせるのがいい

瓜の皮は厚くむき、柿の皮は薄くむくものであるから、このような言い方をする。

うまくなるのとなくなるのと一緒

鍋ものなどは、味が出た頃、おしまいになることが多い。

「え」

えぐい渋いも味のうち

野草などの舌を刺すような感じを「えごみ」というが一種の渋みともいえる。それらの野性的なえぐい味も、全然ないよりは少々あったほうが味よく感じられることがある。この「えぐい渋いも味のうち」とは、本来のものを多少残さないと、独特の味がなくなってしまう意。

得食に毒なし

好きなものに毒はないということ。それが度をこすと必ずしも毒なしとはいえないが。また、好んで働くときは苦労を感じない、好物にたたりなし、ともいう。

 

江戸っ子の梨を食うよう

梨を食べるときは、サクサクと音がすることから、江戸っ子はさっぱりしている、ということ。

 

絵にかいた餅は食われぬ

いくら、上手に描いてあっても絵にかいた餅は食べられない。転じて、空想や観念では頼りにならない。
実際にできることでないと、役に立たないこと。

えびおどれども川を出でず

えびはどんなに跳ねてみても、川から飛び出しては命がなくなってしまう。どっちみち川の中で一生を終えなければならない。転じて、何事もそれぞれ定まった運命を持っている、ということ。似たものに、「うなぎは滑っても一代」がある。

えびで鯛(たい)を釣る

小さいえびで大きな鯛を釣り上げる。小さな元手で大きな利益をあげること。人に物を贈って、それ以上のものをもらったりすると「えびで鯛を釣るな」などという。
しかし鯛はえびが大好きだということは確かで、えびを飼料にして鯛を養殖しようという事業家もいる。成績はいいらしいが、飼料のえびが高いので、実際のところ、「えび鯛」はどうもむつかしいらしい。

 

えぶなの出世

段々に出世していくことをいう。ぼらは大きさによって呼び名が変わるので出世魚といわれている。「えぶな」は「ぼら」の幼魚であるが、やがて、「いな」と名前がかわる。そして、「ぼら」が更に大きくなったのを、「とど」という。「とどのつまり」とはこれから出た言葉である。

 

塩車のうらみ

駿馬が、駄馬と同じに塩を積んだ車を引っぱって働いているのでは、働き甲斐のないことである。転じて、秀才で仕事ができるのに、くだらない下回りの仕事をしていることをいう。

えんどうは日かげでもはじける

時がくれば、日かげのえんどうでも成長してはじける。それと同じように、物事が成功するには時間が必要で、時節が到達すれば、目的は達せられる。

縁の下のあずき

青白くやせた人をいう。また、社会の下層部にいて一生を終える人を指す。

「お」

大鴨がねぎ背負ってくる

一般には、単に「鴨がねぎしょってくる」といういい方をしているが、「大鴨がねぎ背負ってくる」の方が古くからある。転じて都合のいいことや幸福が訪れることをいう。

大きなだいこん

体ばかり大きくて、能のない者をいう。「うどの大木」と同意。反対は「さんしょうは小粒でぴりっとからい。」

 

大飯食い箸を選ばず

大食する者はボリュームが目的であるから、料理の味、形態、盛り付けなどには余り関心がないことをいう。なお、料理用語として「箸がきく」というのは、盛り付けのすぐれていることをいう。

おそまきの西瓜

おそく種をまいた西瓜は夏には実らないから、暑中には間に合わない。つまり時機を失したことをいう。「おそまきのとうがらし」ともいう。

お茶の子

彼岸に仏前に供えるお萩餅のこと。転じて物事が簡単であるとか、たやすいとかいう意味になる。関東では「お茶の子さいさい」という。

お情けより樽の酒

実質の伴わぬ口先ばかりのことよりは、実際にできることの方がまさるという意。

 

おどろ木 桃の木 さんしょうの木

おどろくということを強めていうための添語である。

同じ釜の飯を食う

現在、一般の会話などにもよく出てくる。同じ家に住み、一つの釜の飯を分け合って食べた意。
転じて同じ銀行、会社などに勤めた者などにも広く用いられている。

 

鬼に煎餅

たちまち食い尽くしてしまうこと。何事でも造作なくやってしまうこと。

鬼の留守の間に豆炒ってかもう

おそれる人がいない間に料理を作って食べること。