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過去の展示

四季を巡る江戸庶民の行事と暮らし
秋 新米・新酒
秋 新米・新酒 わが国に於ける稲作は弥生時代から縄文時代に遡り、米作りの長い歴史が始まったとされる。平安時代には稲の品種も現在のものと変わらぬ程に出揃っていたことが、平安時代出土の木簡から見てとれる。
9月は新米収穫の月である。「新米(ことし米、青米)は8月の季節とした書物もあるが、稲の生育には遅い、速いがあり、秋全般に亘るものだ」(『改正月令博物筌』)とある。江戸の米の多くは奥州産であった。「寛永九年(1632年)より仙台の米穀が江戸へ出廻る。今江戸市中の米の三分の一は奥州米である」(『煙霞綺談』―安永2年・1773年)というほどだった。8代将軍吉宗は「米将軍」と呼ばれたが、江戸も元禄の頃には一日3度の食事回数が定着し、糠を落とした精白米を食べるようになる。
秋ともなると、京坂の酒造地から新酒が船で運ばれる。伊丹、池田、灘などから江戸に運ばれる酒を「下り酒」といった。江戸中の酒店では毎年10月、新酒が来ると得意先などに無料で配り、贈り物としていた。下り酒、下り米など「下り物」は大坂からの船便で来る商品で、「京坂からもたらされた上等品」の意味。これに対し江戸近郷からの入荷品を「地廻り物」といい粗製安物を意味する「下らぬ物」といった。江戸の生活物資の大半は下り物で占められていたが、やがて地廻り物の質量が向上し、例えば関東の醤油など、文政4年(1821年)、江戸に入荷した125万樽のうち、下り物はわずか2万樽に過ぎなかった(『江戸醤油問屋仲間上申書』)。
新米/新川酒問屋
新米/新川酒問屋
新米・新酒